土佐七雄(とさしちゆう)
応仁の乱後、各地で豪族同士の戦いが激化すると、土佐守護代であった細川勝益は京へ戻っていきました。
その後(1500年代前半)土佐国内で力を持っていた各地方の豪族達が領土を拡大して、互いに争いを起こしだします。
土佐七雄とは当時中村一条家以外で有力だった豪族(大名)七家を指します。
長宗我部家は一反滅ぼされますが、千熊丸(後の国親)が一条家の加護を受けて復興します。
大平家は一条家に、安芸家は長宗我部家によって完全に滅ぼされました。
吉良家、香宗我部家は、国親の息子が家督を継ぎ、家名は永続、津野家は元親の息子が家督を継ぎ、本山家は茂辰が国親の娘と結婚しており、その子である貞茂は降伏し、元親の一字を賜って親茂となり、長宗我部一門として残った。
長宗我部家は毛利家と同じように、有力な他家に一族を送り、当主となることで地域と部下をいっぺんに取り込むといった戦略を多用していたと考えられます。
ちなみに一条家も当主兼定を追放し、幼かった内政を当主として、岡豊城の近くに住まわせた、元親からしたら、大恩ある一条家を滅ぼす事はしたくなかったのでしょう。
土佐七雄も、長宗我部家の土佐統一によって歴史となったようです。 |