土佐の戦国Data


岡豊城_航空写真 長宗我部氏の起源

 長宗我部氏の祖先は、秦の始皇帝の子孫が渡来した
「秦(はた)氏」だといわれています。
(ちゅうことは中国人ですかぁ?)

この秦氏は元々山城の国(京都南部)を領地としていましたが、子孫が信濃の国(長野県)に移り、さらにその子孫が土佐の国(高知県)に移り住んだそうです。
具体的には、土佐の長岡郡宗部郷(現高知県南国市)あたりでしょうか。

 その頃に秦から「宗我部」と名乗ろうとしたみたいですが、お隣の香美郡(現高知県香美市)にも同じように宗我部を名乗る一族がいたので、郡の頭文字を付けて、長宗我部と名乗ったと言われています。

 信濃から土佐に移った時の君主が秦 能俊(よしとし)で、始皇帝から数えて26代目の子孫です。
土佐に移った能俊は岡豊山に城を築き、岡豊城と名付けました。ここに、長宗我部氏が誕生しました。

家紋

家紋

長宗我部氏の家紋は、
「七つ方喰」(ななつかたばみ)です。
これは秦能俊が土佐へ移る際に朝廷から賜った盃の中に
方喰の葉が浮かんでいたことから、家紋としたと言われています。

ハート型の葉形と、どこにでも繁殖する強い草である方喰は人気があり、家紋とする一族も多かったそうです。

右の写真が方喰です。道端や塀によく生えていますよね。

そして、もう一つ有名なのが「帆掛舟」(ほかけぶね)です。

某戦国ゲームでの長宗我部家家紋ですね。
あまり詳しくは調べておりませんが、豊臣秀吉に降伏後は主に陸よりも海を移動手段としていたようで、浦戸〜堺への物資搬入も度々行っていました。
堺湾に大量の鯨を運び太閤に献上したとの話もあります。

そして、小田原北条攻めでは九鬼水軍と共に海から攻撃をしていることからも、この家紋を使って「水軍方」として活躍していたと思われます。

盛親は最期に帆掛船の家紋があしらわれた袴を着たとも言われています。

土佐七雄(とさしちゆう)

応仁の乱後、各地で豪族同士の戦いが激化すると、土佐守護代であった細川勝益は京へ戻っていきました。

その後(1500年代前半)土佐国内で力を持っていた各地方の豪族達が領土を拡大して、互いに争いを起こしだします。

土佐七雄とは当時中村一条家以外で有力だった豪族(大名)七家を指します。

長宗我部家は一反滅ぼされますが、千熊丸(後の国親)が一条家の加護を受けて復興します。

大平家は一条家に、安芸家は長宗我部家によって完全に滅ぼされました。
吉良家、香宗我部家は、国親の息子が家督を継ぎ、家名は永続、津野家は元親の息子が家督を継ぎ、本山家は茂辰が国親の娘と結婚しており、その子である貞茂は降伏し、元親の一字を賜って親茂となり、長宗我部一門として残った。

長宗我部家は毛利家と同じように、有力な他家に一族を送り、当主となることで地域と部下をいっぺんに取り込むといった戦略を多用していたと考えられます。

ちなみに一条家も当主兼定を追放し、幼かった内政を当主として、岡豊城の近くに住まわせた、元親からしたら、大恩ある一条家を滅ぼす事はしたくなかったのでしょう。

土佐七雄も、長宗我部家の土佐統一によって歴史となったようです。

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