関が原での長宗我部(1)
1599年に長宗我部元親が死去すると、元親の指示でもあった通り、盛親が24歳で家督を相続しました。
同年に太閤秀吉も死去しており、家督を継いだ秀頼は若干6歳。当然家中は荒れて、権威を振るいだしたのが五大老筆頭の「徳川家康」でした。
その家康に対して真っ向から遺憾の意を表したのが五奉行の「石田三成」でありました。
長宗我部家は両家とも対等に仲がよかったようで、豊臣家は主君。徳川家は上司といった関係だったのでしょうか。
しかし、三成の挙兵により西か東どちらかの味方になる必要が出てきたようです。
協議の結果長宗我部家は東軍に味方すると決定しました。
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