土佐の戦国Data


関が原での長宗我部(1)

1599年に長宗我部元親が死去すると、元親の指示でもあった通り、盛親が24歳で家督を相続しました。

同年に太閤秀吉も死去しており、家督を継いだ秀頼は若干6歳。当然家中は荒れて、権威を振るいだしたのが五大老筆頭の「徳川家康」でした。

その家康に対して真っ向から遺憾の意を表したのが五奉行の「石田三成」でありました。

長宗我部家は両家とも対等に仲がよかったようで、豊臣家は主君。徳川家は上司といった関係だったのでしょうか。

しかし、三成の挙兵により西か東どちらかの味方になる必要が出てきたようです。

協議の結果長宗我部家は東軍に味方すると決定しました。

 

関が原の長宗我部(2)

早速盛親は徳川に味方するとの意思を示すために書状を送ったが、家康は東国(上杉景勝を討伐しに会津へ進軍中)にいたので、どうしても機内(三成の勢力化)を通る必要がありました。

案の定、使者がことごとく西軍の妨害に遭い、この状況の中で東軍に味方することを宣言してしまうと、地理的に孤立したちまち襲われるのは必定なので、やむなく盛親は西軍に味方することを決めました。

盛親は「こうなれば是非もなし、我運を天に委ね西軍の将として戦い、長宗我部の名を天下に轟かそうぞ!」と自分の運命を受け入れました。

関ヶ原布陣図

関が原の長宗我部(3)

盛親は7000人の手勢と共に西軍本体と合流し、同年7月に「鳥居元忠」の守る伏見城を攻撃。瞬く間に陥落させると、その勢いのまま伊勢国の安濃津城を攻撃しました。

長宗我部軍と共に攻撃したのは「毛利秀元」を大将とした毛利軍30000人。さしもの名城もなす術無く調停により降伏開城となりました。

そして、美濃国に入ると、長宗我部隊はそのまま栗原山の南方にある、「南宮山」の山奥に布陣しました。

 

関が原の長宗我部(4)

戦が始まるとしばらく静観しますが、いまいち現状が把握できないので山を降りて陣を移そうとします。しかし、すでに東軍に内通をしていた「吉川広家」の軍に道をさえぎられ、どうしても通してくれません。当然広家は味方だと思っていますので、無理に軍律を乱す事もできず、その場で戦況を見守るしかありません。

戦況は西軍の小早川秀秋の裏切りにより西軍が総崩れ、盛親は何がどうなったかもろくに解らないまま、西軍総崩れとなり、関が原から土佐へと命からがら逃げ帰りました。

 

関が原の長宗我部(5)

土佐に戻った盛親は、徳川の重臣で交流のあった「井伊直政」にお願いして家康との謝罪対面を要望します。家康からしてみれば少しでも西軍大名の領地を減らし、東軍諸将への褒美としたかったので、長宗我部に何か落ち度が無いか思案していました。

不運な事に土佐ではこのタイミングでとんでもない事件が起きてしまいます。幽閉されていた盛親の兄「津野親忠」が暗殺されてしまったのです。これは盛親の命令かどうか定かでは無かったのですが、その話を聞いた家康は大激怒。こともあろうに実の兄を身勝手な理由で殺した罪は到底許されざる外道の如き所業、領地は没収、盛親は罪人として京で謹慎処分となってしまいました。

こうして、関が原の判断により土佐の長宗我部家は盛親の代になって、たった1年足らずで滅亡してしまいました。

Copyright (C) 2006 TOSAno sengoku data. All Rights Reserved.