土佐の戦国Data

長宗我部元親伝 第7話

さてっ!いよいよこのシリーズも大詰めでしょうか?
今回は晩年の元親さんが活躍する出来事を紹介していきます。
でも実際のところもう山場は越えちゃってますから、あとは消化試合ですねー
こらー!!
消化試合って言うな!!
歴史的に重要な出来事に何回も登場するんだよ。
この存在感こそ、四国の覇者ですなー
やはり秀吉と並ぶ人物ですよぉーだ。
おおー自己紹介が遅れましたが、私は長宗我部・・・
はい、盛ちゃん。
へっ??
そんな自己紹介なんていらないよぉー
長宗我部盛親っていったら、日本中で知らない人がいない位有名ジャン!!
このー隅に置けないねー!!
えっあはははは・・・・
そうでもないけどねー
三成ちゃんちょっと誉めすぎだよぉ!!!
さて、冗談はこれくらいにして
今回はいよいよ関東小田原、朝鮮等、舞台を転々と変えながら 活躍する元親さんを紹介して行きマース!!
orz・・・
それではさっそく始めマース。

豊臣秀吉の配下となり、四男盛親を跡継ぎとして表明した元親に、秀吉から再び参戦要求があります。
九州を制圧した秀吉の次の標的は関東の北条家でした。
元親は盛親らを引き連れて1590年小田原に海路にて出陣します。
長宗我部の軍艦「大黒丸」は伊豆の下田城を攻略する等の武功を上げました。


土佐の水軍って強かったの??
結構ね!
残念ながら村上水軍とか九鬼水軍みたいに活躍したって言う明確な書類が残ってないから なんともいえないけど。
浦戸って所に大きな港があって、水路を使った交易とかが盛んで、結構栄えてたんだよ。
へー
田舎なのに・・・(ボソッ
そうですよっ!
所詮は田舎規模ですから・・・
でも、浦戸って聞いた事あるよね。
確か元親さんの最後の居城じゃなかった??
そそっ!
この小田原征伐後に大高坂城から転居するんよ。
なぜ??
うーん、大高坂の土地って鏡川と久万川っていう大きな川に挟まれた土地だったから 川が氾濫すると直ぐに水浸しになっちゃうんだよ。
治水とかの整備が思うように進まなくて、水害多かったら町も発展しないし・・・
で、仕方ないからさっき言ったみたいに水路の交易で栄えていたこの浦戸に居城を 移したんだよ。
水害なんて、移る前から予測できなかったの??
うむむ・・・それは結果論でしょ。

「想定の範囲外」だった・・・
ふぅ〜・・・
だから検地もろくに出来ないんだよ・・・ (ボソッ
それでは続きです。

小田原の北条家を滅亡させ事実上の天下を統一し成し遂げた豊臣秀吉は、いつしか海外をも我が物にしようと考え始めます。
1592年には朝鮮への出兵を開始します。
これは、中国の明国を征伐する為の通路として朝鮮を制圧する為であったとされています。
長宗我部元親は5番隊として、福島正則や蜂須賀家政らと共に朝鮮に渡ります。
日本からの攻撃を予測していなかった朝鮮王朝は次々と城を落とされ、首都漢城を占領されてしまいました。
しかし、その後明国からの援軍と朝鮮後方軍、海軍の活躍により日本勢は、徐々に勢いが失われていきます。
そして、1596年には和議交渉が取り交わされるんですが、穏便に和議を進めようとするあまり、明国、日本両方に相手が降伏したと嘘の報告をしました。
秀吉は明国が降伏したと思っていたのに、それが嘘と分かり激怒、使者を追い返して再び朝鮮への出兵が開始されました。
1597年、秀吉は14万余りの軍を再度朝鮮へ送り込みます。
しかし、今回は朝鮮側も防衛の準備をしっかりとしていたので、苦戦を強いられました。
戦線膠着の最中、太閤秀吉の死去に伴い朝鮮から全軍が撤退しました。


朝鮮の役なんかしなかったら徳川に天下を奪われなかったかもしれないのに・・・
太閤殿下ぁ・・・
それはあるかもねー、その分国内の統治を絶対な物にしておけば、家康もそう簡単には天下を牛耳れなかったとは思うけど・・・
それは「if」だから・・・
それにしても、朝鮮の役では三成ちゃんも大活躍だったんでしょ?
まーねぇ・・・
ぼくの奉行としての腕は高く評価されたけど・・・
その分いろんな人から恨みを買っちゃってさぁ・・・
あーねぇ・・・
豊臣武闘派との争いだね。
反りが合わない人の喧嘩だよね。
そういった意味では、長宗我部家とは良好な関係だったといえるけどね。
意外かもしれないけど仲が悪そうに思われている虎ちゃん(加藤清正)とは どっちかと言うと仲良しだったんだよ。
幼馴染だし。
けど、朝鮮の役でお互いの気持ちにズレが出ちゃってさぁ・・・
誤解ってよくあるよねー
僕だって親忠兄ちゃんとは・・・
そういえば朝鮮の役の最中に土佐に外国船がやってきたんでしょ??
そそっ!
三成ちゃんも知ってるよね。
イスパニアの船「サン=フェリペ号」が浦戸港に来たのよぉ。
父ちゃんは直ぐに秀吉さんに報告して、増田長盛さんがやって来て 調べたりしてたよ。
この事件がきっかけで太閤様のキリスト教弾圧が始まったんだよね。
なんか複雑・・・
これに関しては長宗我部家のせいでは無いと思うけどね。
船員の失言が原因でしょ?
まぁねぇ・・・
いくら本当のことでも
「キリスト教を普及させてその国を乗っ取りマース。」
なんて口が裂けても相手国に言っちゃいけないよぉ。
そうねー。 でっこの時期に父ちゃんは
「長宗我部元親百箇条」
を制定したんだよ!!
歴史の教科書にも載ってるから有名だよねー。
「長宗我部元親百箇条」ダケネ!!ダケッ!!!

1596年って説が有力だね。資料としては一番新しい法度で、 完成度も高いっていう噂だね。
まぁ凄いんじゃない。

田舎なのに (ボソッ
田舎田舎ってうるさいなぁ・・・
晩年の父ちゃんは政治家としての技量を発揮したんだよねー
単なる「戦上手」だけじゃなかったんだね!!
大名としての気質は充分に兼ね備えてたんだろうけど やっぱり運がなかったのかな?
タイミングというか・・・
やっぱり・・・そう思う・・・
あと外交がねぇー。例えば毛利家と島津家と互いに同盟を結び合って 武田・北条・今川みたく三国軍事同盟とかやって、信長や秀吉にも対抗できたかもねー
いやっそれはないな!!
さて、いよいよ次回は最終回!!
戦国の世を駆け巡った土佐の出来人、長宗我部元親の最期を ご紹介しマース。

それで
まったねーバイバーイ!!! やっ
ブチン!!
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