土佐の戦国Data
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戦国武将列伝 > た行

高石 左馬助

たかいし さまのすけ 生没不詳
noimage 情報なし

長宗我部家家臣で一領具足。1600年頃に土佐北山地方(本山、滝山、下津野等)を拠点にしていた。関ヶ原後主家が改易され、新たに山内一豊が入国本山地方を拝領した山内刑部一照に従うを良しとしない左馬介は、1603年、百姓や一領具足を束ね、反抗した。鉄砲で武装し、滝山の洞窟に籠もった左馬介らは5日間もの間もちこたえるが、大砲で攻撃されると戦意喪失となり、讃岐方面に逃亡した。

「滝山一揆」は鎮圧されたが、一豊は首謀者以外の加担者を無罪とし、百姓らをその場所にとどめた。

竹内 惣右衛門

たけうち そうえもん 不明〜1601
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長宗我部家の家臣で一領具足。一領具足は農民ではあったが、元親から信頼され、軍議に参加する事もあった。1600年、関ヶ原後に主家が改易されると、徹底抗戦の構えを見せ、盛親に土佐半国を与えるように主張し、浦戸城に籠城した。

この「浦戸一揆」の首謀者が惣右衛門であった。しかし、浦戸側の大将となっていた桑名吉成は、この抵抗によって盛親に危険が及ぶと察知し、逆に謀略によって浦戸城の要所を押さえると、開城してしまう。

それを知った惣右衛門ら一領具足は浦戸城を奪回すべく奮闘するが、各地で討取られて鎮圧させられた。首は塩漬けにされて大坂の井伊直政に送られた。

竹内 虎之助

たけうち とらのすけ 生没不詳
noimage 子:弥藤次(養)

長宗我部家に仕えていた忍者であったとされる。久武親信に従い各地で数多くの戦に参加した。
流派は不明だが、忍者としての腕前は達人であったとされる。

竹内 弥藤次

たけうち やとうじ 生没不詳
noimage 妻:竹内虎之助娘(竹内家)

養父虎之助と共に、久武親信に従い伊予国岡本城を攻撃するが、城を守る土居清良の奇略の前に大敗、親信は討死し、兵士らも一網打尽にされた。

弥藤次は命こそ守ったが深手を負って養父と共に土佐へ帰国した。しかし、久武隊の大敗は既に土佐にも知らされており、二人が死んでしまったと思い込んだ妻は16歳という若さでありながら、二人の後を追って自害していた。

大いに悲しんだ弥藤次も妻の後を追って自害しようとするが、養父に止められる。その後は「玄藩」と改名し、親信の弟で家督を継いだ親直に従って佐川定番となった。

立石 正賀

たていし まさよし 1565〜1659
noimage 情報なし

16歳で長宗我部家の家臣となり、久武親信・親直に従い主に伊予方面で武功をあげる。出世し、家中でも重臣として元親から信頼され、元親の遺言も受けている。

関ヶ原では盛親が敗走後も京都に留まって、井伊直政を通して家康に謝罪をしたが、その甲斐もなく主家は改易される。

その後は肥後国熊本藩主である細川越中守綱利に仕えた。晩年「長元記」を著した。

谷 忠澄

たに ただすみ 1544〜1600
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土佐郡一宮の神主であったが、元親にその腕を見込まれて家臣となる。1584年秀吉の四国征伐では、阿波国一宮城に籠城して、羽柴秀長軍の猛攻をしのいだ。しかし、到底勝ち目が無いと確信した忠澄は秀長の降伏勧告を受け入れると、元親に全面降伏をするように勧めた。元親は反対したが、忠澄は他の重臣達も説得し、連判状を持って再度詰め寄るとついに元親も受け入れた。

戸次川の戦いでは、元親より、討死した信親の遺体返還を要求する使者としてじきじきに頼まれ、単身島津陣中へ赴き、無事信親の遺体を返してもらった。
土佐帰還後は中村城代となる。1600年に病死、土佐国中村正福寺に葬られた。

長宗我部 国親

ちょうそがべ くにちか 1504〜1560
noimage 妻:祥鳳(斎藤家)
子:元親、親貞、親泰、親益、本山茂辰室、池頼和室、波川清宗室

幼少の折、居城であった岡豊城が落城し、父兼序が自害すると、一条家を頼って落ち延びた。中村一条家にて成人し、一条房家の計らいにより岡豊城へ復帰、長宗我部家を再興することができた。

時を同じくし、仇敵であった本山家と和睦し、茂宗の嫡男茂辰に娘を嫁がせた。その後は本山家一門として忠誠を尽くす傍ら、密かに周辺豪族を調略して勢力の拡大を計った。
1556年には三男親泰を香宗我部家に養子として出すなどして、基盤を固めていった。

本山茂宗が死去すると本山家に宣戦布告し、本山領に侵攻し始めた。1560年には長浜合戦で決戦を繰り広げ、見事本山軍を壊滅せしめた。勢いに任せて一気に浦戸城を攻め入ろうとした時、突如病に犯されて急死した。

一領具足の考案者ともされるが、実際に一領具足を活用したのは息子の元親である。

長宗我部 元親

ちょうそがべ もとちか 1539〜1599
noimage 妻:石谷光政娘(石谷家)
子:信親、親和、親忠、盛親

幼少の頃は「姫若子」と噂されるほど、無口でおとなしい性格だったが、22歳の初陣では、鬼神のような働きを見せ「鬼若子」と呼ばれ賞賛された。ことなくして、父国親が突然死去すると家督を継いだ。

父の意思を継ぎ、本山家を滅亡させると、安芸家、一条家を次々と滅亡させ土佐を統一する。その後も弟達と協力して阿波、讃岐、伊予に侵攻、1585年ついに四国を統一する。

しかし、すぐさま秀吉の四国征伐が開始され、わずか数ヶ月で降伏。土佐一国の大名となった。1568年九州征伐では戸次川で大敗し、最愛の息子であった信親を失う。失意の元親はこれまでの性格が一変し、自我を通して邪魔な家臣を排除し、一般的な習いを無視して四男の盛親に信親の娘を嫁がせ、世継とした。

1599年、太閤の死を追うように病となり京都伏見屋敷にて死去。土佐国雪渓寺周辺に葬られた。

〜元親列伝はこちら〜

長宗我部 信親

ちょうそがべ のぶちか 1565〜1587
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妻:石谷頼辰娘(石谷家 )
子:節(長宗我部盛親室)

元親の嫡男で、若い頃より時期当主として期待され、信親自身も十分な才能があった。家臣からの信頼も厚く、美男子で長身であったと言われる。
烏帽子親は織田信長で「信」の字を賜っている。後に信親の噂を聞いた信長は自分の養子に迎えたいと言ったほどである。

1585年、秀吉に降伏した長宗我部家は土佐一国を安堵され、翌年には九州征伐の先鋒を受けた。信親も父らと共に九州に出陣し、島津軍と抗戦するが、総大将の仙石秀久の無謀な作戦の犠牲となり戸次川にて島津軍の猛攻に合って最期は20名余りとなり、ついに信親も鈴木内膳によって討取られた。

その遺体は島津家より丁重に返還され、土佐にまで僧侶を同行させるほどだった。
いくら敵将でも勇猛果敢な武将に対しては敬意を持って対処する島津家は、戸次川での土佐軍の戦ぶりを評価したと思われる。

島津義弘も信親の死を聞き、元親の心中を思って泣いたとされている。

長宗我部 盛親

ちょうそがべ もりちか 1575〜1615
noimage 妻:節(長宗我部家)
子:盛恒、盛高、盛澄、盛信、盛定

元親の四男として生まれ、将来は分家として過ごす予定であったが、戸次川の合戦で長男信親が討死すると、長宗我部家中で家督相続問題が浮上した。元親に溺愛されていた盛親は正当な跡継ぎとなる。その後は父と共に各地の戦に赴き、豊臣家に忠誠を尽くした。

関ヶ原の合戦では当初東軍の徳川家に味方する予定だったが、西軍の増田長盛によって西から東への連絡を遮断され、やむなく西軍の豊臣家(実際は石田三成ら)に味方した。

関ヶ原では栗原山に陣取るが、東軍に内通していた吉川広家の妨害に合い、戦もせずに土佐へ退却した。家康に謝罪をするが、兄殺しの汚名をきせられ領地没収の上謹慎処分となる。以後は名を「大岩幽夢」と名乗り京都で寺子屋の師匠となり、子供たちに学問を教えた。

1614年には、豊臣家、徳川家が険悪となると、豊臣秀頼より誘いがあり、大坂城に入場した。秀頼から歓迎され「大坂五人衆」の一人として重要視されるが、あくまでも浪人集として見られ、軍議での発言はほとんど無視されていた。大坂冬の陣では、大坂城門を守るが、あまり戦働きもないまま、上層部が勝手に徳川と和議を結び、停戦。

しかし、翌年再び戦が始まり、大坂夏の陣では、堀を埋められた大坂城はもはや城としての防御力も無く、やむなく野戦となった。盛親は八尾にて藤堂軍を敗走寸前にまで追い詰めるが、井伊軍の加勢により形勢は逆転し敗走した。数名の家臣と共に大坂城に帰還した。大坂城が落城すると密かに城を脱出し、逃亡を計るが、蜂須賀家の兵士に捕らえられる。

盛親は二条城門外にさらされ、京都市中引き回しの末斬首された。盛親の息子達もそれぞれ殺害さあれ、その血筋は事実上絶えた。

津野 勝興

つの かつおき 不明〜1578
noimage 子:親忠(養)

父が長宗我部家からの一条家討伐協力を拒否したことで、長宗我部家を恐れた家臣阿から伊予に追放されると、家督を強制的に相続した。

長宗我部家に降伏すると、元親の三男親忠を養子に迎え、長宗我部家の親戚衆になった。

津野 親忠

つの ちかただ 1572〜1600
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元親の三男で、津野勝興の養子となった。秀吉に降伏すると人質として大坂に置かれるが、その後土佐に帰還している。人質時代には藤堂高虎らと交流があり、親しい間になったと言われる。非常に父思いで、敬心厚く、民百姓の為の政を行い、家臣からの信頼を多く、将来を期待された。

家督相続時には、父が千熊丸に家督を譲りたい事を知り自ら相続の意思が無い事を表明した。その後は津野領にて政務に力を注ぎ、大坂で学んだ政治策を積極的に取り入れるが、朝鮮出兵後、領内で問題が起こると1599年、謝罪も受け入れられず父の命により領地を没収され、香美群岩村に幽閉された。自分の寿命が残り少ないことを悟った元親が力のある親忠が、盛親を裏切って、自ら当主になる事を恐れた為とも言われている。

幽閉中に長宗我部家が関ヶ原で西軍につき、敗れると友人の井伊直政と弟の罪を許してもらい、領土安堵を願う為に働きかける。しかし、この行為を謀反の疑い有と盛親の家臣久武親直らに命を狙われた。最期は追い詰められ、考山寺(霊岩寺)高知県高岡郡津野町北川1548 で自害して果てた。

遺骸については香美市土佐山田町神通寺にある土佐神社で埋葬されている。

土居 宗珊

どい そうさん 1512〜1571
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一条家の家臣で、智勇兼備の名将として主家に忠誠を尽くしていた。長宗我部家の侵略により弱体化する一条家を力の限り支えたが、当主兼定の遊興振りを戒めるが逆恨みされ、処刑させられた。

このことは、日頃から懸命に一条家の為に尽くしてきた宗珊を慕う家臣と兼定との間に亀裂を生み、一条家の滅亡が早まる事となる。

藤堂 高虎

とうどう たかとら 1556〜1630
noimage 妻:久芳院(一色家)
子:高次、高重、蒲生忠郷室、藤堂忠季室、岡部桂賢室、他

始めは近江国浅井家に仕えていたが、滅亡後織田信澄、羽柴秀長、豊臣秀保らに仕えた。1595年に秀保が死去すると高野山にて出家するが、その才能を惜しんだ秀吉から呼び戻され伊予国宇和島7万石の大名となった。盛親の兄津野親忠とは親しい間柄であったとされている。

関ヶ原では東軍に味方をし、その功績により伊予国今治20万石に出世した。外様であったがその家康から信頼され、高虎も忠誠の限りを尽くした。長宗我部家の家臣を多く登用したことから長宗我部家、特に津野親忠(反久武)派からとは広く交友があったとされる。

大坂の夏の陣では、八尾の戦いで長宗我部盛親隊と激突。盛親の奮闘により苦戦し、600名にも及ぶ死傷者を出しながらも井伊勢の加勢もあり何とか勝利を収めた。藤堂隊の中には旧長宗我部家臣が多くいたが、藤堂高虎への忠義も忘れることなく、あくまでも藤堂の家臣として戦ったとされる。(一部殉死にも似た行いをした者もいた。)

家康死後も二代将軍秀忠に仕え、変わらぬ忠誠を通した。

藤堂 高刑

とうどう たかのり 1577〜1615
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元は鈴木家の子で、母が藤堂高虎の姉であった。初陣の朝鮮出兵では海戦にて武功を立てた。関ヶ原では湯浅五助を討取り、徳川家康より賞賛される。

藤堂高虎の家臣として大坂の陣に参戦。夏の陣では先鋒として戦うが、八尾にて長宗我部盛親の猛攻をまともに受け、部隊は壊滅。多くの兵と共に討死した。

土居 清良

どい きよよし 1546〜1629
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伊予国宇和郡に生まれた清良は、幼少の頃土佐国中村一条家の下で育ったが、元服後には伊予への帰国を許され、三間領主となり、大森城に入った。以後は領地を大友家や一条家、長宗我部家から守り、毛利の援軍として中国へも参戦し、多くの武功を上げた。

1579年岡本城に長宗我部家老久武親信隊が攻め寄せると奇策を用いて壊滅させ、親信を討取った。元親は清良を恐れ、伊予三間領への攻撃を断念した。1587年には秀吉から所領安堵を約束されるが、辞退してそのまま隠居した。秀吉や藤堂高虎からの勧誘もあったが、断り続け、表舞台には登場しなかった。

1650年ごろに、土居一族の末裔である土居水他が「清良記」を著している。清良の半生がつづられた軍記物であるが、当時の農業に関する情報が詳細に記されており、日本最古の農業書とも言われている。

百々 綱家

どど つないえ 1548〜1609
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織田信長の家臣であり、信長死亡後は羽柴秀吉に仕えた。その後織田秀信の家老となり、関ヶ原では秀信を東軍に味方するように勧めたが聞き入れられなかった。

織田家が滅亡するといったん浪人となったが、後に岐阜城攻めで戦った山内一豊からの誘いを受けて仕えた。
1601年、土佐藩主となった一豊は当初浦戸城に入ったが、周辺の土地が狭く、城下町を発展させる事ができないと判断し。長宗我部元親も諦めた大高坂山に新しい城を築く計画を立てた。綱家は奉行となり1609年の死去直前まで築城に力を注いだ。

徳川 家康

とくがわ いえやす 1543〜1616
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征夷大将軍となり、江戸幕府の開祖となった。長宗我部元親とは共に豊臣家家臣として親交があったといわれるが、詳細な資料はない。井伊直正等徳川家家臣との交流もあり関ヶ原までは両家の関係は良好であったと考えられる。

しかし、関ヶ原の合戦後家督を継いだ盛親を「兄殺し」とののしって改易させたり、大坂の陣では、盛親を斬首の刑に処し、一族も皆殺しにしたことから長宗我部家にとっては鬼門である。

関ヶ原後の処分については当時の家康の立場からも家康の独断と言う訳ではなかったらしいが、大坂の陣では盛親を生かしておいては徳川幕府に仇があると判断しての結果だといえる。

一方土佐山内家については、家康死後も土佐藩主であり続け、江戸幕府が滅亡するまで続いている。