土佐の戦国Data
123456
戦国武将列伝 > や・ゆ・よ

山内 一豊

やまのうち かずとよ 1545〜1605
noimage 妻:千代(若宮家)
子:与祢、湘南宗化(養)、忠義(養)

尾張国葉栗郡の出身で、1570年頃に織田信長の家臣となり、木下(羽柴)秀吉の与力となった。1570年の姉川合戦で初陣を果たし、浅井・朝倉攻めで武功をたてて、信長にも認められ、近江国浅井郡400石を賜った。

本能寺の変後は、秀吉の下で各地の戦に参加、豊臣秀次の宿老となり、近江国長浜城主となった。1590年の小田原北条征伐の功績により、遠江国掛川5万1千石を賜った。

関ヶ原の合戦では徳川家康に味方し。評定において真っ先に掛川城を献上すると言ってその忠義を見せた。勝利後は土佐国20万石を賜り、初代土佐藩主に就任する。

1601年に浦戸城へ入城し、反発する長宗我部家臣や一領具足を鎮圧するが、浦戸の地理的な問題から平野の多い大高坂の地を開拓する。1605年河内山城(今の高知城)にて死去した。

山内 康豊

やまのうち やすとよ 1549〜1625
noimage 妻:長井家娘
子:忠義(山内家)、政豊、重昌(深尾家)、一唯(西園寺公益室)
  与祢(稲葉正成室)、郷(酒井吉佐室)

山内一豊の弟として、織田信忠に仕えたが、本能寺の変において自害した信忠を見捨てて逃亡したとされ、兄の下で補佐に転じた。関ヶ原の合戦後兄が土佐藩主に就任すると、先に土佐へ入国すると一領具足らの一揆を鎮圧し、土佐国中村2万石の所領を賜った。

1605年、兄一豊が死去すると実子で一豊の養子となっていた忠義が2代藩主となり、息子の後見人を務めた。

山内 忠義

やまのうち ただよし 1592〜1665
noimage 妻:松平定勝娘(徳川家康幼女)
子:忠豊、忠直、一安、之豊、娘(久留島通清室)

山内康豊の長男として生まれるが、康豊の兄一豊に跡継ぎがいなかった為、1603年に養子となった。徳川家康・秀忠に謁見をした際は、松平姓を賜った。

1605年に養父一豊が死去すると家督を相続するが、12歳であったため、実父の補佐を受けた。1610年、居城としていた河内山城を高知城と改名した。

大坂冬の陣では、徳川方として参戦したが、夏の陣では暴風雨(台風?)の為に参戦できなかった。土佐藩の藩政改革を推進し、村上八兵衛や野中兼山らを主軸にして、藩の基礎を固めた。1656年には息子の忠豊に家督を譲って隠居し、1665年に死去した。

吉田 孝頼

よしだ たかより 1494〜1563
noimage 妻:長宗我部国親娘(長宗我部家)
子:貞重、周重

土佐国吉田家は中臣鎌足の末裔を称していて、足利尊氏の頃の先祖首藤俊宗が土佐の領土を与えられて土着したと言われている。ちなみに俊宗の弟俊氏は尾張国に土着し、山内姓を名乗っていた。山内一豊の先祖と言われている。

孝頼は、土佐吉田城主であり、智武共に優れ、長宗我部国親が岡豊城で長宗我部家を復興すると、国親の娘を娶って使えた。名実共に国親の片腕として活躍した。
土佐井口城を攻め落とすと、城を元親から与えられた。生涯長宗我部家の知恵袋として重用されていたが、元親の代1563年に病に倒れ、惜しまれつつ他界した。
一領具足の考案者とも言われている。

吉田 貞重

よしだ さだしげ 生没不詳
noimage 子:重親

1569年、安芸国虎との戦いにおいて、左目を槍で突かれるが、その槍を持ち逆に相手の首を取った。隻眼となりながらも、長宗我部元親の下で数多くの功績を上げた。

関ヶ原の戦い後、山内一豊が新しい領主となると一領具足の抵抗が過激化し「浦戸一揆」が勃発するが、長宗我部古参の武将である貞重はこれに加担せず、逆に鎮圧すべく開城を勧めた。これは、津野親忠殺害の盛親に対する不信があったとされている。
その後、信濃国高遠藩主保科正光に仕官した。

囲碁の名手であったともされ、天文学にも通じていたとされる。

吉田 重親

よしだ しげちか 不明〜1615
noimage 子:重隆

父らと共に長宗我部家の重臣であった。関ヶ原で改易されると浪人となった、他家に仕えることもなく、諸国を流浪していたが大坂の陣で大坂に入り、主である長宗我部盛親に従う。夏の陣では、増田盛次と共に先鋒として活躍するが討死した。

吉田 重俊

よしだ しげとし 1498〜1570
noimage 子:重康、親家(江村)

兄である孝頼と共に長宗我部国親、元親に仕えた。1558年に土佐国香美郡上夜須城主となる。

1569年、安芸家との戦いでは一族の孝俊と共に安芸軍を敗走させると、計略で内部崩壊に導き、籠城していた安芸軍を壊滅させた。

吉田 重康

よしだ しげやす 生没不詳
noimage 子:俊政

長宗我部元親の初陣から共に戦った武の人。父が夜須城主に就任すると、父に従い香美郡夜須に移り住んだ。夜須は安芸家領地と隣接しており、度々安芸軍の攻撃に遭ったがよく守った。長宗我部家が本格的に本山家と抗戦したおりは、留守の役目を受け、馬之上城に入った。しかし、手薄となった夜須を安芸家は見逃さず、攻め入るが、妻子と共に持ちこたえてこれを撃退した。

安芸家が岡豊城を攻めた際も、夜須城に攻めてきた別働隊を粉砕し、そのまま少人数にて安芸軍本隊を背後から攻撃し、敗走させた。

吉田 政重

よしだ まさしげ 生没不詳
noimage 秦泉寺掃部娘(秦泉寺家)
子:三悦

記録では六尺二寸(約2m30cm)の長身であり、恐ろしいくらいの怪力であったとされる。阿波国中冨川の戦いで初陣を見事に飾ると、以降は長宗我部家の主要な戦いに参加、元親も戦働きにおいて信頼していた。

朝鮮の役では陣地を襲った虎の群れを退治したと伝えられる。この功績を元親は賞賛して、秘蔵の康光刀を与えられた。また、敵将朴好仁とその一族を捕虜にしている。大坂の陣では旧主長宗我部盛親と共に戦うが、そのご後は山内家から士官の話が度々あったが、弟を仕官させると自らは土佐国安芸軍安田にて医者となって生涯をすごした。一生涯で討ち取った敵の首は115、20箇所もの戦傷を持つほどの猛将であった。

吉田 康俊

よしだ やすとし 生没不詳
noimage 子:俊政

1579年、阿波国小松島の戦いで桑名親勝の危機を救うといった活躍を見せるが、腕を切り落とされた。しかし、その後の中冨川の合戦で片腕とは思えない活躍をした。阿波国渭山城(いのやまじょう)後の徳島城の守備を任される。

戸次川や文禄の役でも長宗我部家に忠義を見せ、数々の武功をたてた。関ヶ原では盛親を守り土佐へ帰国。その後共に謝罪の為上坂する。主家が改易となると一時山内家に仕えるが、隠居して大和国へ転居する。

大坂の陣では旧主盛親に従い戦ったが、敗北後は播磨国姫路藩初代藩主である松平忠明に使えて同地にて死去した。

幕末に活躍した吉田東洋の先祖である。