土佐の戦国Data
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戦国武将列伝 > さ行

佐竹 親直

さたけ ちかなお 1566〜1615
noimage 妻:長宗我部元親娘(長宗我部家)
子:朝意

幼少より長宗我部元親に仕え、元親の娘を娶っている。以後は一門として元親の信頼を受けて重用され、各地で活躍した。

大坂夏の陣では盛親と共に奮戦するが、八尾の戦いで討死した。

島 親益

しま ちかます 不明〜1571
noimage 子:五郎左衛門

国親の四男で、元親の弟。国親が家臣の妻に手を出して生ませた子であり、その流れで島姓を名乗った。兄達に劣らぬ武将で武術に秀でており、本山家や安芸家との合戦では大いに活躍するが、病に犯されてしまう。

療養の為に有馬の湯へ向かうが、悪天候の為阿波国那佐(なさ)に停泊した際、安芸家残党が阿波国の海部家と共謀して襲撃してきた。

病の体を奮い立たせて抗戦するが30名足らずの家臣であった為、たちまち追い詰められ、最期は三島にて切腹した。

この報を聞いた元親は烈火の如く怒り狂い、すぐさま阿波国海部家を攻撃。容赦なく砦や城を制圧した。その後三島神社を建立し、弟と従者の御霊を祀っている。

湘南 宗化

しょうなん そうけ 不明〜1637
noimage 情報なし

1586年近江国長浜を襲った大地震で長女よねを失った山内一豊千代夫妻に拾われて子供として育てられた。実際の両親は不明だが一説では一豊の隠し子と言われている。

豊臣秀次が世継ぎ問題で切腹させられると、一豊の命で出家した。諸説はあるが、もし、一豊が責任を負わされ切腹にでもなったら、相続問題になると判断した為と言われている。

その後京都で修行を積み、湘南宗化和尚となり、一豊から土佐国吸江寺を与えられ住職になった。その実力も認められ、朝廷からは紫衣の勅許を受けていた。
実際には京都の妙心寺住職でもあり、吸江寺住職とは兼務であった。
妙心寺は山内家の菩提寺にもなっている。

一豊死去後、千代(見性院)は土佐を弟康豊と、その子で養子となり家督を継いだ忠義に任せて妙心寺の近くに移り住んで余生を過ごした。

仙石 秀久

せんごく ひでひさ 1552〜1614
noimage 妻:野々村幸成娘(野々村家)
子:久忠、秀範、忠政・・・等

羽柴秀吉の家臣であった秀久は、秀吉の中国征伐に際し淡路5万石の国主に任ぜられていた。1582年本能寺の変で信長が死去すると、混乱に生じて長宗我部元親は秀久と激突した。讃岐引田の戦いでは、戦上手の秀久も、一枚上手の元親に大敗するが、秀吉が本格的に四国征伐を開始すると元親は降伏、秀久は讃岐国高松10万石を賜り大名となった。

1586年、秀吉の九州征伐では、軍監として長宗我部元親・信親親子、十河存保等を従え大友の援軍として九州に入った。功を焦る秀久は、秀吉の命令を無視して、島津軍と戦を開始する。戸次川の合戦で、豊臣軍は大敗、長宗我部信親や十河存保等有力武将を多数失った。さらに、秀久自身は自軍が敗色濃厚となると真っ先に戦地から逃亡するという醜態をさらした。

激怒した秀吉から領地を没収され、高野山へ追放された。

十河 存保

そごう まさやす 1554〜1587
noimage 子:千松丸、存英、保長(坂東)

三好義賢の三男で、十河一存の養子となり1561年に家督を継いだ。当初織田信長と敵対をしていたが、長宗我部家の勢力が拡大してくると、主家と共に信長と和議を結び、長宗我部家と対立した。

1577年、兄で当主の三好長治が阿波国荒田野で、同じく兄の細川真之(長男)に討たれると、事実上の三好家当主になった。信長に従属する形で長宗我部軍と讃岐・阿波で奮闘するが、本能寺の変が勃発すると織田家の後ろ盾が無くなると戦局は逆転した。

阿波に侵攻してきた長宗我部軍と中富川で激突するが大敗。そのまま大坂まで落ち延びた。しかし、1585年には秀吉に協力。旧領であった讃岐国十河3万石の大名となった。翌年の九州征伐に参加、かつては領地を奪われた長宗我部元親らと共に仙石秀久の下で戦うが、秀久の無謀な作戦に巻き込まれ、戸次川にて島津軍に討取られた。

祖父江 一秀

そふえ かつひで 生没不詳
noimage 情報なし

山内一豊の家臣。豊臣秀次の家臣であった父が没すると、母の再婚先である祖父江家の家督を継いだ。

一豊の土佐入国後は1000石を賜り、大坂冬の陣で盛親が大坂城に入ると呼応した一領具足の反乱を未然に察知し、首謀者の奥宮伝兵衛とその息子を磔にして未然に鎮圧した。