戦国武将列伝 > な行 |
なかのうち そうえもん | 不明〜1624 | |
妻:久武信直娘(久武家) 子:弥五左衛門 |
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関ヶ原に盛親とともに出陣するが、敗退し主家滅亡後は浪人となる。しかし、大坂の陣で再び盛親と共に戦うが、再度敗北した。盛親と共に逃亡を計るが、蜂須賀家の家臣に捕まった。 盛親が家康の命により斬首に処せられるが、惣右衛門はその忠義を評価され命は救われた。兄が蜂須賀家に仕えていた事もあり、仕官を求められるが、「我二君に仕えず」と言って拒否し、土佐へ戻り剃髪して「惣入」と号し盛親の菩提を生涯弔ったとされる。 |
なかじま しげふさ | 生没不詳 | |
情報なし | ||
戸次川の合戦で敗走中豊後の豪族から襲撃を受けるが、これを見事撃退したとして元親より賞賛された。その後は土佐で検地奉行を務めた。関ヶ原の合戦後は浪人となったが、藤堂高虎に仕えた。 大坂の陣では旧主盛親の元に参上し、共に戦った。その後は消息は不明。 |
なかじま べぐのすけ | 生没不詳 | |
情報なし | ||
武芸、学術共に優れていたが、身分が低かった為、せめて名前だけでも一番にと思い可之助と名乗った。「可」の文字は漢文では必ず一番上に来る文字である。 長男弥三郎の烏帽子親に織田信長をと思った元親は、使者に誰を遣わすか考えていた。重臣らは身分の高い家老にとの意見でまとまりかけたが、元親は可之助に決める。可之助は尾張に出向き、斉藤利三から明智光秀にお願いし、織田信長と対面できる運びになった。信長の前で口上を述べると、信長は「元親は鳥無き島のコウモリだ」とあざ笑ったが、すぐさま可之助は「我が友は蓬莱宮の漢天に候」と返答した。その堂々とした態度とすばやい返答を信長は褒め、烏帽子親の件了承した。 |
なかやまだ やすよし | 1541〜1613 | |
子:秀長、宣時 | ||
香宗我部秀通の養子として迎えられた長宗我部国親の三男親泰が香宗我部を継ぐと、泰吉は、親類家の中山田家を復興させ、当主となって香宗我部家に仕えた。 武将としての能力が高かった泰吉を親泰も信頼し、元親にも「我の跡はこの泰吉が継ぐことといたす」と公言していた。豊臣秀吉にも、香宗我部の正当な血筋はこの泰吉であると言ったほどであった。しかし、実際には親泰の死後は次男の貞親が継ぎ、後見人となっている。 関ヶ原の戦いでは、西軍に組した主家とは別に、井伊直政と通じ、当初より「香宗我部家は盛親と別心であり、東軍へ忠誠を誓うものである」と言って、家康からも御家安堵の確約を得ていた。 長宗我部家滅亡後隠居し中山田家は実弟である秀政を養子として跡を継がせた。 |
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なかやまだ ひでまさ | 1544〜1619 | |
子:政氏 | ||
泰吉の弟で、兄と共に香宗我部家の家臣として仕えた。関ヶ原の合戦後兄から家督を譲られた。 |
なみかわ げんば | 不明〜1580 | |
妻:養甫尼(長宗我部家) 子清久 |
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清宗という。長宗我部家の家臣で、土佐国伊野波川城主であった。土佐一条家攻めの活躍を認められると元親の妹を妻に娶り、一門衆として仕えた。伊予国大野直之への援軍として派遣されるが、小早川軍の工作によって和睦し、さっさと退却した。 その後幡多郡山路城主に任命されるが、度重なる悪政により免職させられた。このことから元親に対して謀反を企てるが、一条内政以外の賛同者が出てこず、結局事前に発覚してしまい玄蕃は剃髪し、香宗我部親泰にすがるも、元親の許しは貰えず自害を命ぜられた。 |
のなか けんざん | 1615〜1664 | |
情報なし | ||
父は土佐山内家に仕えていたが浪人となり、その父が死去すると父の従兄弟で土佐奉行職野中直継の養子となった。1636年に養父が病死すると、野中家を継いで奉行となった。 二代藩主忠義から藩政改革を命ぜられた兼山は、堤防の建設や開拓により米の生産を飛躍的に増やし、森林資源を活用して土佐藩の財源を充たした。さらに藩外から植物や魚を取り寄せて養殖を開始。捕鯨、陶器の技術者を重用する等意欲的な活動を行った。 しかし、その一方では過度の年貢取立てや贅沢禁止による重圧によって領民への不満が高まり、忠義が隠居すると。兼山の政治に不満を持つ家老達によって失脚させられた。 1664年、宿毛に幽閉されると間も無く死去した。一族も共に幽閉されており、兼山死亡後も男系の血筋が耐えるまで幽閉は続いたといわれる。 |
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