土佐の戦国Data
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戦国武将列伝 > ま行

増田 長盛

ました ながもり 1545〜1615
noimage 子:盛次

近江国の出身で、秀吉に古くから仕えて戦ではなく内政において秀吉から認められていた。豊臣政権では五奉行に任ぜられ、外交や検地で力を発揮した。

長宗我部元親の四男千熊丸が正式に元親の跡継ぎに決まると、長盛に烏帽子親の依頼があった。長盛は承諾し、「盛」の字を与えた。
以降も長宗我部家と交流があり、1596年サン=フェリペ号事件では、漂着したイスパニアのサン=フェリペ号を謁見する為に土佐へ赴いた。

関ヶ原では西軍として大坂城の守備に就いたが、命は助けられて高野山に追放された。
大坂の陣では息子が長宗我部盛親と共に戦った為、その責任から自害を命ぜられた。

増田 盛次

ました もりつぐ 不明〜1615
noimage 情報なし

関ヶ原において父長盛は高野山に追放されたが、盛次は徳川家康の直臣として仕えたその後家康の九男で尾張徳川家開祖の徳川義直に仕えた。

大坂冬の陣では、徳川の臣として武功を上げた。しかし、突然豊臣方に寝返り、大坂城に入った。夏の陣では長宗我部盛親隊に属し、八尾にて藤堂高虎隊と戦った。
敗北が濃厚になると盛次は長宗我部隊の殿を務めたが、藤堂家臣磯野行尚に討ち取られた。

本山 茂宗

もとやま しげむね 1507〜1555
noimage 子:茂辰

土佐北部の山間部本山地方(本山郷)をに領土を持ち、当時最強の力を持っていたとされる。武勇に優れた茂宗は勢力を南にも伸ばし、浦戸湾(土佐湾)に侵攻すると。浦戸城や朝倉城といった土佐中央部の主要な城を押さえた。

その後本山城は息子の茂辰に譲って、自らは朝倉城で他勢力に目を光らせた。
しかし、息子や他の家臣に有力なものがいなかった為、1555年に茂宗が死去すると本山家の勢力は急速に衰退した。

吉良 茂辰

もとやま しげとき 1525〜1564
noimage 妻:長宗我部国親娘(長宗我部家)
子:貞茂(親茂)、茂慶、茂直

「土佐の七雄」の中でも最大規模の勢力を持っていた本山茂宗が死去すると家督を継いだ。しかし、茂宗の死を窺(うかが)っていた長宗我部国親が反旗を翻した。この義父の裏切りに対して茂辰は朝倉城を拠点として本格的に長宗我部討伐を開始した。武力では勝っていたが国親の巧みな調略によって、本山家は戦力を次第に奪われ形勢は逆転する。長浜合戦では長宗我部家の和獅子元親の活躍などで敗退するが、その直後長宗我部国親が病に伏せ他界した。

好機と思われたが、後を継いだ元親の父以上の能力によって、領土を失い朝倉城を焼き払って本山城に退去した。
山深い本山郷においてゲリラ戦のように長宗我部軍と対立し、土佐平野奪回を狙うが、1564年病のため本山城で病死した。

本山 貞茂

もとやま さだしげ 1545〜1587
noimage 情報なし

1564年本山家復興のために徹底抗戦を繰り広げていた父茂辰が病死すると家督を継ぎ、父の意思を受け継いで長宗我部家と戦う。しかし、兵力の差は歴然となり、本山城を捨てて瓜生野原に移り戦いを続けるがついに降伏した。

武将としての能力が高かった貞茂は母が長宗我部元親の姉であったこともあり、一門衆として迎えられ、元親にも気に入られて「親」の字を賜り親茂ると名乗った。

長宗我部信親の家老としてその才覚を発揮していたが、戸次川の合戦では敵である島津軍に信親と共に包囲され、奮闘するも最期は討死した。

町 三郎右衛門

まち さぶろうえもん 生没不詳
noimage 情報なし

1600年、豊臣方(石田三成)と徳川家康の対立が表面化すると、各地の大名は西軍(豊臣方)に付くか、東軍(徳川方)に付くか思案していた。
長宗我部盛親は、重臣達との協議の結果東軍に付く事を決め、三郎右衛門に徳川家康に宛てた密書を送るように命じた。

しかし、石田三成は西国の使者が徳川方に届かぬように、各街道で検問を布いていた。近江国水口城の豊臣方武将長束正家の警戒網にかかった三郎右衛門は、密使としての役目を果たせぬまま、無念の中帰国した。

明神 源八

みょうじん げんぱち 生没不詳
noimage 情報なし

関ヶ原後、徳川家康によって改易させられた盛親に仕えて、身の回りの世話をしたといわれている。

毛利 勝永

もうり かつなが 1577〜1615
noimage 子:勝家、太郎兵衛

豊臣秀吉に仕え、1587年10歳の若さで豊前国1万石を与えられた。関ヶ原では西軍に組し、敗戦すると所領を没収され改易となった。

父と共に身柄を加藤清正に預けられるが、その後土佐山内家に渡された。罪人として送られたが、土佐では家老に取り立てられた。

大坂の陣が勃発すると、土佐から脱走し、大坂城へ入城した。夏の陣では、敵将本多忠朝や小笠原秀政を討ち取り、家康本陣に突撃をする等の働きを見せたが、兵力の差によって敗北。大坂城に帰還すると、豊臣秀頼の介錯を仰せつかり、自らも自害した。