戦国武将列伝 > あ行 |
かがわ のぶかげ | 1527〜1600? | |
子:親和(養) | ||
讃岐国(西讃岐)の守護代であった香川家は三好家と覇権を争っていたが、1578年に長宗我部家が讃岐に侵攻すると、1581年には元親次男の親和を養子に迎える条件で和議をし、事実上降伏した。長宗我部家の傘下に入ると、羽床家や香西家等を降伏させ、長宗我部家の領土拡大に貢献した。 秀吉の四国征伐により長宗我部家が降伏すると、土佐一国に封じられた為、香川家も天霧城を出て土佐へ向かった。ここに讃岐国としての香川家は滅亡した。 |
かがわ ちかかず | 1567〜1587 | |
情報なし | ||
長宗我部元親の次男として生まれた親和は、病弱であったが秀才で優しい性格であったとされる。1581年には讃岐国の香川家に養子として送られ、五郎次郎と名乗った。 帰国した親和は香川家当主として幡多郡山田郷に所領を宛がわれ、親和自身は岡豊城下に屋敷を構えて住んでいた。 1586年に信親が討死すると長宗我部家の家督相続問題が勃発し、一躍渦中の人となった。豊臣秀吉からは朱印状を頂き、元親に親和を相続させるようにとの要請があったが、元親は四男盛親に相続をさせると決めた。この直後病にて岡豊城下で死去した。 絶食した説や元親の命による毒殺説などもあるが、元来病弱であったため、家督問題の混乱から体を崩し、病死した説が有力である。 |
きら ちかさだ | 1541〜1576 | |
子:親実 | ||
国親の次男で、元親の弟。1563年に兄の命で土佐吉良家の当主となる。武勇に優れ、元親の四国統一に多大な貢献をし、元親の代わりに総大将を務める事もあった。 1575年、一条兼定が大友宗麟の援助を受け、土佐へ侵攻した際も親貞の活躍により危機を脱し、一条軍を壊滅させた。同年中村城主となったが、翌年病によって急死。 一条家の呪いや、暗殺説もあるが、親貞の死は長宗我部家にとって大きな損失となり、元親も大いに悲しんだと言われている。 |
きら ちかざね | 1563〜1588 | |
情報なし | ||
幼少の頃より智勇に優れ、一門としても武将としても元親から信頼されている。父親貞の死後家督を相続し、一門衆の中でも武の中心となって各地で活躍する。 1586年、信親が戸次川にて討死すると、長宗我部家では家督相続争いが勃発する。親実は武家の倣いに従い次男の親和を推薦するが、一門と対立していた久武親直らが四男千熊丸を推薦し対立する。 元親も溺愛していた四男を時期当主とすべく久武親直に従い。信親の娘と結婚させるとまでいいだした。長宗我部家の将来を考えて必死に元親を説得するが、元親から切腹を命ぜられ、1588年、無念の最期を遂げた。 この後、土佐では「七人みさき」と呼ばれる怪奇現象が起こった。 |
くわな よしなり | 1551〜1615 | |
妻:桑名藤蔵人娘(桑名家) 子:兵助 |
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基は中内家の者であったが、桑名藤蔵人の養子となり家督を継ぐ。幼少時は元親の小姓として仕え、各地で数々の武功を上げると、中村城代となった。戸次川の合戦では、元親が退却する際に追っ手として現れた野党を一刀両断し、無事土佐に退却させる活躍をみせた。 1600年、主家が改易されると藤堂高虎に鉄砲頭として仕えた。高虎からも厚い信頼をえたが、長宗我部盛親に仕送りをする等、旧主への恩義も忘れずに尽くした。 1615年、大坂夏の陣では、盛親に呼応することなく、あくまでも藤堂家として戦った。 別説によれば、盛親と戦う事を避け、自ら敵に突進して自殺したとも言われている。 |
こうざい よしきよ | 1553〜1588 | |
妻:羽床資載娘(羽床家) | ||
讃岐国の豪族で、勝賀城主。幼いときに失明する。始めは十河家に仕えていたが、長宗我部元親の讃岐侵攻が始まると盲目の身でありながら激しい抵抗を見せる。しかし、次第に追い詰められ、1582年に落城寸前の所で香川信景の仲介により和睦した。 |
こうそがべ ちかやす | 1543〜1593 | |
子:親氏、貞親 | ||
国親の三男で、元親の弟。1558年に父の命で香宗我部親秀の養子となる。平和的な縁組ではなく、あくまでも香宗我部家を乗っ取るためであり、当主秀通を暗殺して当主となった。 1569年には安芸城主となり、阿波攻略の中核として活躍する。1582年中富川の合戦では、十河存保軍を撃破し、翌年には木津城を攻略する等の活躍をした。 戦上手だけでなく、外交能力にも秀でており、1575年には中島可ノ助と共に織田信長との同盟に成功、さらに本能寺の変後は柴田勝家や徳川家康とも交渉を重ね、四国統一を優位に進めた。 豊臣家への降伏後は、秀吉から元親と同様の信頼を得ている。親泰も忠誠を尽くした。1592年、文禄の役に出陣したが長男親氏を失うと、失意の中自らも翌年出兵中に長門で病の為急死した。 |
こうそがべ ちかうじ | 1572〜1592 | |
情報なし | ||
親泰の長男。智勇に優れ、主家の家督相続争いの混乱後一門衆の筆頭として活躍した。朝鮮出兵においても老齢である元親の代わりに総大将として出陣して、朝鮮軍と戦うが、21歳の若さで急死した。 親泰も信頼していた息子の早すぎ死に消沈し、翌年病死してしまう。 |
こうそがべ さだちか | 1591〜1660 | |
子:親重 | ||
親泰の次男で、兄、父の相次ぐ死により3歳で家督を相続する。関ヶ原で主家が改易されると堺に住み。成人後に肥前国寺沢家に500石で仕えた。豊臣家が滅亡すると中原源左衛門と名乗って浪人になるが、春日局の斡旋により下総佐倉堀田家に2000石で仕えた。 |
こうの みちなお | 1564〜1587 | |
妻:宍戸隆家娘(宍戸家) 子:通軌(養) |
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河野道宜の養子となり1568年、4歳で家督を継ぐ。実際の政務は実父の河野通吉が行ったが、河野家に乱世を生き抜く力は無く、毛利家の支援により何とか存在を保っていた。1585年には長宗我部家からの降伏勧告にやむなく応じた。 しかし、降伏直後に秀吉の四国征伐が始まると、小早川隆景の軍が湯築城に迫り、降伏をし、開城した。通直は城内の子供ら45名の助命を隆景にお願いした。この願いは聞き入れられるが、河野家は事実上滅亡した。その後は隆景の領地安芸国竹原にて余生を過ごし、1587年に病死した。 |
ごとう ためしげ | 1558〜1629 | |
情報なし | ||
山内一豊の家臣、古くから兄吉兵衛と共に仕え、一豊が参加した戦に数多く参加した。 一豊が土佐一国を手にすると、戦死した兄と本人の長年の功績により安芸城を賜り、安芸地方を治めた。 |
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