土佐の戦国Data
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戦国武将列伝 > は行

播磨屋 宗徳

はりまや そうとく 不明〜1648
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播磨国の豪商であったが、長宗我部元親の讃岐国出兵の際、兵糧の調達を行った功績によって土佐に招かれた。浦戸城下に移った宗徳は、長宗我部家に商人として仕えていたが、主家滅亡後山内一豊が入場し、大高坂の地に新城を築き、居城を移すと、一豊は宗徳らを特権商人として重用し、大高坂城近くに住居を移した。

その後も町づくりに貢献し、町年寄役を務めた。1606年には町役人に専任させる為に商人としての振る舞いを禁止された。

宗徳の屋敷と小さな川を挟んだ向かいにあった富商柩屋が、互いに行き来する為に作った私橋「播磨屋橋」は現在も観光スポットとして有名である。

比江山 親興

ひえやま ちかおき 1557〜1588
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長宗我部国親の弟国康の次男であり、元親の従兄弟であった親興は、一門衆の中でも発言力があり、若年寄衆の筆頭であった。長宗我部姓も名乗っている。秀吉の四国征伐では阿波国岩倉城の守備に就いた。長宗我部家が降伏すると人質として大坂に送られる津野親忠に付き添っている。

戸次川の合戦後に勃発した家督相続問題では、津野親忠を後継者に推薦して、盛親を推す久武信直や元親と対立した。
長宗我部元親に対しても世間の習いに従うべきとの主張を緩めなかった為、元親から邪険にされ、切腹を命ぜられた。妻や子供らも殺されており、この事件から土佐では「七人みさき」の怨霊が出没すると言う騒ぎがあった。

久武 親信

ひさたけ ちかもぶ 不明〜1579
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元親の家臣で、武勇に優れその誠実な人柄から信頼され重用されていた。1569年、土佐国佐川に侵攻すると、佐川城主となる。数多くの戦に参加して、功績を上げると、元親から4万石という他の武将とは桁違いの禄高を賜った。

1575年四万十川の合戦では、吉良親貞と共に先陣を務めた。その後南伊予侵攻の総大将として、総指揮を任された。元親が一門衆以外で総指揮を任せるのは珍しく、信頼していた事が伺える。

1579年、西園寺領宇和島郡の岡本城を攻撃中、城主の土居清良の奇抜な攻撃により久武隊は総崩れとなり、親信自身も鉄砲で撃たれ、瀕死となった。(三間表の戦い)
死に際、元親に対して「我が弟は腹黒き男ゆえ、御取り立て召されるな。」と言い残している。この発言を聞き入れず重用した親直の直言により、長宗我部家が滅亡させられる原因となった。

また、親信は有馬の湯にて羽柴秀吉と面会した事があり、その際の秀吉の器量を見せつけられたと言われている。

久武 親直

ひさたけ ちかなお 生没不詳
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元親から絶大な信頼を得ていた親信の弟として、仕えていた。兄は剛の者であったが、親直は智謀に優れ、頭の切れる反面人一倍強欲であったとされている。
死に際に兄から「家督は継がせない」といわれたほどであった。

しかし、兄が死亡すると遺言を無視して家督を継いだ。1584年に南伊予の郡代となり、宇都宮家、西園寺家と戦い、攻略している。
長宗我部家の家督相続問題が勃発すると、四男盛親を擁立し、反対派で津野親忠を推薦する吉良親実や比江山親興と対立し、元親に「吉良、比江山らは殿に謀反の疑いあり」と言って両者を死罪に追いやった。

1600年、関ヶ原の戦い後、津野親忠の忙殺を企てたとされている。盛親の為を思って起こした行動であったといわれるが、裏目に出て兄殺しとして盛親は家康から領地没収させられている。他の家臣が家康に対して抗戦を主張しても、降伏論を唱えて盛親も親直の意見を取り入れている。結果として主家滅亡の原因を作ったと言われるが、武将としての能力は高く、盛親からも信頼されていたと思われる。

主家滅亡後は浪人の末農民に下ったとも、肥後国加藤家に仕えたともされている。

福留 親政

ふくどめ ちかまさ 不明〜1577
0 子:儀重、民部、平兵衛、新太郎、新九朗

長宗我部家中随一の猛将と謳われ、槍の名手であったと言われる。元親から「親」の字を受け、親政と名乗った。
君主から21回にも及ぶ感謝状を受けたと言われるほどの戦上手で、1563年安芸国虎に岡豊城を攻められた時には、熊谷源介と共に落城の危機を奪し「福留の荒きり」と呼ばれ、賞された。

土佐郡秦泉寺城を任され、元親からの信頼も厚かった。1577年伊予攻略の先陣として戦うが、討死した。長宗我部信親の傅役(もりやく)でもあった。

福留 儀重

ふくどめ よししげ 1549〜1586
0 子:政親

親政の長男で、通称「隼人」と呼ばれている。

「蛇もハミ(マムシ)もそちよれ。隼人さまのお通り〜」と土佐の童謡でも歌われている。

元親が領内に禁酒令を出しておきながら自ら岡豊城に酒樽を持ち込む様子を見て憤慨し、酒樽を叩き割って元親を戒めたという逸話があるほど、剛直で真直ぐな人柄であったとされる。長宗我部家の戦に数多く参加し、元親の四国統一に貢献するが、戸次川の戦いで討死した。

墓所は隼人神社として祭られている。

朴 好仁

ぱく ぼうにん 生没不詳
0 子:元赫

長宗我部家の家臣、吉田政重が朝鮮の役において捕虜にした朝鮮人。朝鮮国秋月城の城主であった朴の一族と従者数十名(別資料では380人)は土佐国浦戸に連れられてきた。

その後土佐国で朝鮮医療や豆腐、コンニャク等の製法を伝えたとされる。日本では「はくほう院殿」と呼ばれ、息子長左衛門(朴元赫)は秋月姓を名乗り高知城下に屋敷を持ち、山内家にも重用された。その場所は現在「唐人町」と呼ばれて地名が残っている。
好仁はその後本人の希望で韓国へ帰国したとされる。

羽柴 秀吉

はしば ひでよし 生没不詳
0 妻:おね(浅野長勝娘)
子:秀勝(石松丸)、鶴松、秀頼

天下を統一し、農民の出身でありながら関白にまで就任した有名な武将。四国征伐では10万を超える大軍勢で一気に四国へ上陸。長宗我部軍はわずか2ヶ月で降伏した。
秀吉は元親に土佐一国を与え、元親も臣下の礼を取った。

戸次川で元親の長男信親が討死すると、朱印状を出して次男の香川親和に家督を譲るように働きかけるが、親和は間も無く病死している。
秀吉は元親をたいそう気に入って、よく大坂に招いたとされている。
晩年には元親が秀吉を京都の館に招いたともいわれている。

羽床 資載

はゆか すけとし 不明〜1582
0 子:資吉

讃岐国の豪族。西讃岐に領地を持っていたが1579年長宗我部軍が侵攻してくると8回も攻撃に耐えるが、兵力の差により戦況は悪化、最期は先に降伏していた香川家の使者の勧めに従って降伏した。その後は所領を安堵され、長井宗我部軍下で東讃岐攻略に参加する。

1582年、十河城攻撃中に病に伏せ、そのまま死亡した。