土佐の戦国Data
123456
戦国武将列伝 > あ行

安芸 国虎

あき くにとら 1530〜1569
妻:峰子(一条家)
子:千寿丸、鉄之助、安野

 安芸国虎は、土佐東部の安芸地方を納める有力豪族でり「土佐七豪族」の一人に数えられていた。妻は一条兼定の妹で、急速に勢力を広げる長宗我部元親と対立する。
 1569年長宗我部軍と八流(やながれ)で対陣するが激戦の末敗退する。さらに、安芸城周辺を包囲されると多数の内通者が発生し、戦意を失い、最後は城兵の命と引き換えに安芸家の菩提寺である浄貞寺にて自害した。

池 頼定

いけ よりさだ 正没不詳
noimage 子:頼和

 土佐長岡郡池城主。長宗我部国親の侵攻を脅威と感じた頼定は降伏を考えるが、徹底抗戦を主張する家臣の岩松経重に押されて対立を余儀なくされる。

 しかし、岩松経重が長宗我部家の武将中島大和守に討たれると、息子の頼和と国親の次女を結婚させ和睦。以後は長宗我部家に従属し、長宗我部水軍(土佐水軍)として活躍。堺との交易も頻繁に行っていたようである。

池 頼和

いけ よりかず 不明〜1593
noimage 情報なし

 池家が長宗我部家と和睦をした際に、両家の縁をつなぐ為国親の次女を娶った。

以後は浦戸種崎を拠点とし、水軍衆の頭目となり、長宗我部家を支えた。軍事はもちろん、交易による経済効果でも多大な功績があった。
元親の小田原遠征では相模国下田攻めに参加し、元親の手柄を助けた。

しかし、1593年に夫婦の不仲から謀反の疑いを掛けられると、元親から自害を命ぜられた。

石谷 頼辰

いしがい よりとき 不明〜1587
noimage 妻:石谷光政娘(石谷家)
子:加兵衛、

 斉藤利賢の長男で、石谷光政の養子となった。弟に斉藤利三、妹の夫は長宗我部元親である。(なのに、余り有名でない!?・・・)

足利将軍家に仕えるが、織田信長によって足利義昭が追放されると、明智光秀の家臣となった。本能寺の変後、主君が死亡すると長宗我部元親を頼って、土佐に落ち延びた

長宗我部家では一門として重用され、娘を元親の息子信親に嫁がせるほどの密接な関係であった。

最期は、戸次川の合戦で娘婿の信親と共に戦死した。

一条 房基

いちじょう ふさもと 1522〜1549
noimage 妻:大友義鑑娘(大友家)
子:兼定、峰子(安芸国虎室)、伊藤義益室

 土佐中村を拠点とした土佐一条家三代目当主で国司。
1541年に父房冬が死去すると家督を相続した。智勇に優れており、謀反を起こした津野基高を討取ると、1546年には津野家を降伏させた。下火であった一条家を盛り上げ、領土を拡大させていったが、1549年家督相続後わずか8年で突如自殺をしてしまった。

 理由の詳細は不明だが、狂気してしまったと言われている。

一条 兼定

いちじょう かねさだ 1543〜1585
noimage 妻:宇都宮豊綱娘(宇都宮家)、離別後大友宗麟娘(大友家)
子:内政

 父房基が急死した為、7歳で家督を相続した。1558年には宇都宮家の娘を娶るが、1564年に離別。その後大友宗麟の娘を娶っている。伊予国人衆であった宇都宮家と関連諸将はこの件で一条家に敵意を表すこととなる。

 1568年、伊予国人衆と友好関係にあった毛利家と対立するが大敗する。その頃東からは日の出の勢いであった長宗我部家が一条領に侵攻し始めた。
1571年には、重臣土居宗珊を逆恨みから処刑してしまう。宗珊を慕っていた一条家の家臣たちは兼定への信頼を失い、1574年に兼定は家臣によって追放された。

兼定は出家し、妻の実家である大友家を頼って落ち延びた。1575年には切支丹となり、宣教師カブラルより洗礼を受けた(洗礼名:ドン・パウロ)。同年夏には大友家の力を借りて土佐へ侵攻。旧領奪回と復興を目指したが、四万十川の合戦で長宗我部軍に敗北すると、敗走した。

伊予国宇和島にある戸島で隠住生活を行っていたが、1585年に死去した。死因は元親に内通していた家臣によって片腕を切り落とされた傷が原因とされている。

一条 内政

いちじょう ただまさ 1557〜1580
noimage 妻:長宗我部元親娘(長宗我部家)
子:政親

 父兼定が土佐より追放されると、長宗我部元親に養育された。元親の娘を娶ると土佐大津城城主となり屋敷は大津御所と称された。

 しかし、1580年に元親家臣波川清宗が謀反を起こすと、清宗と共謀したとされ土佐より追放された。同年伊予で死亡した。死因は元親を暗殺しようと企てたが、逆に毒殺されたとされている。

一条 政親

いちじょう まさちか 1578〜不明
noimage 情報なし

 幼少の頃より、元親家臣久礼田道祐に養育された。父内政が大津御所と称された事から、政親の屋敷はは久礼田御所と称された。詳細な記録は残っていないが、関ヶ原にて主家が滅亡すると、京都に向かったとも、同地で住み続けたとも言われている。

乾 彦作

いぬい ひこさく 不明〜1633
noimage 子:板垣正信(養)

 1578年、近江国長浜で一豊に仕えた。戦上手で、一豊をよく支え、土佐藩の家老となった。関ヶ原では武田家重臣であった板垣信方の孫正信より陣借りの申し出があり、これを了承した。その後正信を養子にとした。

 主君一豊が土佐藩主となると土佐南国岡豊地方4500石を拝領し、家老となった。
自由民権運動の板垣退助は、乾家の直系であり、自ら板垣信方の子孫と名乗っている。

大西 覚養

おおにし かくよう 不明〜1578
noimage 子:頼包(養)

四国の中心にある阿波国白池城主で、阿波を治めていた三好家に従属していたが、1576年覚養の兄(足摺金剛福寺僧)が長宗我部元親の使者としてくると、あっさりと息子を人質に差し出して降伏した。

しかし、再び三好家より誘いがあると、再び三好へ寝返るが、1578年長宗我部軍の猛攻により城を捨てて讃岐へ逃亡したが、逃亡先で三好(十河)保存によって殺害された。

大西 頼包

おおにし よりかね 正没不詳
noimage 情報なし

別名「上野介」。父である覚養が長宗我部家に降伏した際に、人質となって岡豊城へ送られる。しかし、父が再び三好へ降った事が判ると長宗我部家の家臣から殺害するべきと詰め寄られるが、元親は罪深きは覚養だといって殺さずに送り返そうとした。

その慈悲に感激した頼包は元親の家臣となり、白池への道案内を自ら行って手柄を立てた。その後も讃岐・阿波攻略に力を注いだ。

織田 信長

おだ のぶなが 1534〜1582
noimage 妻:帰蝶(斉藤家)
子:信忠、信雄、信孝・・・等

尾張国の小大名であったが、桶狭間にて今川義元を討取ると、次第に勢力を拡大。一気に戦国最強の勢力となった。長宗我部家とは友好関係を保ち、織田家家臣斉藤利三の娘を元親の妻とし、さらに元親の長男の烏帽子親にもなっている。

しかし、長宗我部家が四国最大の勢力になると突然同盟関係を断ち切り、四国征伐を宣言する。信長の四国征伐が実行されようとする直前に本能寺の変が起きる。