土佐の戦国Data
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逸話・用語集 > 山内一豊・山内家家臣

亡き兄の功労

 関ヶ原の功により徳川家康より土佐10万石を拝領した山内一豊は、1601年土佐入国の折、
五藤為重を呼び寄せてこういった。

「浦戸までの道中で、気に入った場所があれば申せ。その場所をそなたの所領として与えようぞ。」

東部山地を越え、安芸平野に差し掛かったときに、為重は、

「この場所を頂きたく候。」

と一豊に申し出た。

すぐさま一豊は、

「只今よりこの場所は五藤家が所領ぞ!」

と笑いながら言った。

これは、長年一豊を助け、大恩のある為重の兄、吉兵衛為浄の功労に一豊が報いたのである。

 この話には落ちがあり、その後浦戸に向けて進んでいくと、安芸平野よりも開けた南国平野があり、
この場所を見た為重はたいそう悔しがったという。

焼き大根

羽柴秀吉の与力として、中国の毛利家攻略の陣中にいた山内一豊は、
野営を余儀なくされる日々があった。

季節は冬で、夜は敵に知られる可能性もあり暖を取る事も満足に出来なかった。

一豊の家臣である五藤吉兵衛は、兵士たちが大根を焼いて食べ、飢えと寒さを補っている事に目をつけ、
さっそく君主である一豊にも差し出した。

「ささ、温まりまするゆえ。」

すると一豊は、

「ありがたいことだが、吉兵衛よ。焼き大根はことのほか口が臭そうなる。臭い息では秀吉様の御前に出ることが出来なくなるゆえ遠慮しておく。」

と断った。

鏃(やじり)

羽柴秀吉の与力となった一豊は、越前朝倉氏討伐の為に、一乗谷にいた。北近江と越前敦賀との国境にある刀根坂は古くから東西の近江路を結ぶ間道として利用されていた。

朝倉軍の中にひときわ武勇に秀でた猛将がいた。朝倉一門の出である三段崎勘右衛門である。勘右衛門は弓の使い手として知られており、同地において朝倉軍の殿として織田軍と戦を交えていた。

その前日、一豊は同僚であった大塩金右衛門正貞とこのような話をしていた。

「お主は朝倉方の、三段崎勘右衛門を知っておるか?」

大塩にこう切り出された一豊は、

「名は聞いた事があるのぉ・・・たしか朝倉きっての猛将だとか・・・」

と返答した。

「そうじゃそうじゃ、実はその三段崎がこの度の戦にて殿を務めておるらしいぞ」

「そうか、そのような者が殿では容易ならざるのぉ・・・」

と一豊は嘆いた。しかし、大塩は

「何を申すか。これは好機であるぞ。その者の首を取ってみよ。そうなれば恩賞も思いのままじゃ。」と高笑いをした。

一豊はその三段崎の声が聞こえる場所にいた。

「我こそは朝倉が家臣、三段崎勘右衛門である。さあさあ織田の者よ。我が首、取れるものなら取ってみよ」

そう言うと勘右衛門は自慢の弓を引き絞り羽柴隊目掛けてひょろりと撃ち掛けた。

じりじりと三段崎隊を追い詰める羽柴隊の中で、一豊は勘右衛門の場所だけを狙っていた。
そして一豊は勘右衛門の直ぐ近くまで詰め寄った。

しかし、さすがわ百戦錬磨のつわものの三段崎である。一豊の姿を捉えるやすぐさま切り返して弓を放った。
その弓は見事に一豊の左頬に命中。かろうじて奥歯で鏃は止まった。

しかし、一豊はそのまま勘右衛門に突進。馬上から勘右衛門を引きずり落とした。そのまま、両者重なり合って坂を転がり落ちた。もみ合いの末一豊は勘右衛門の上にまたがった。

しかし、顔の痛みと転がった際の衝撃による激痛が一豊を襲い。思うように体が動かず、脇差を抜く事ができずにいた。

「おお〜。一豊殿ではないか?大事無いか」

と大塩の声が聞こえた。しかし、一豊に返事を返す暇はなかったが、大塩はその場の状況をすぐさま把握し、二人の所に歩み寄ると刀を抜き、一気に勘右衛門の首を刎ねた。

その場に崩れ落ちる一豊の横には、討取られた勘右衛門の首が転がっていた。

「ほほほ、大手柄じゃな一豊殿。それがしは引き続き戦へ戻るゆえ。お主はこの場に留まっておけ、よいな。」

そう言うと大塩は坂を登り始めた。

「これこれ、大塩殿。首を忘れておるぞ。」

一豊は痛みをこらえながら声をだした。

「はははー。何を言うか。その首はお主の討取ったりし首ではないか。大事にせい。」

からからと笑うと大塩は敵陣の中へ消えていった。

しばらくすると、一豊の家来である五藤吉兵衛がやってきた。

「これはどうしたものか、なんたるおいたわしい傷であるか。」

吉兵衛は一豊の姿を見るなり、その場に駆け寄ってただおろおろとするだけだった。

一豊は静かに声を出した。

「こりゃ、吉兵衛。はようこれを抜け。」

我に返った吉兵衛は、直ぐに矢を抜きにかかった。

しかし、鏃が深く喰い込みどうにもこうにも抜ける気配が無い。
抜こうとするたびに激痛が一豊を襲う。

耐え切れない一豊は

「吉兵衛、痛くてかなわん。わしの顔を踏んで、引っこ抜け。」

その言葉に反応し、吉兵衛は草鞋を脱ごうとした。

「草鞋は履いたままで構わん。はようせぃ。」

戦場で草鞋を脱ぐ事は危険である事を承知で脱ごうとした吉兵衛への配慮から
一豊は、痛みに絶えながらそう話した。

吉兵衛は、うなづくと、主君である一豊の顔を踏みつけて、一気に鏃を抜いた。

吉兵衛は、一豊を担ぎ上げると、勘左衛門の首を持って、羽柴隊の陣屋まで戻った。

勘左衛門の首は早速秀吉の下に送られ、信長の前で首実検が行われた。

「これは見事なり、朝倉髄一の猛将を討取るとは」

信長は賞賛し、その功によって一豊は近江唐国400石の知行を与えらた。

この時履いていた草履と引き抜いた鏃は五藤家の家宝として現在も残っている。

二つの文

太閤秀吉が死去し、天下は大いに揺らいだ。

五大老筆頭の徳川家康は上洛を拒否した上杉景勝を討伐する為に会津へと向かった。一豊も家康に従って従軍した。

その頃大坂では、石田三成が挙兵し、大名の妻子を人質にして、西軍へ組み込む文を送った。その文は一豊の妻千代の元へも届けられた。

千代は家臣の田中孫作に文を届けるようにと命じた。
その際、二通の文をしたため、一通を西軍からの文と一緒に、もう一通を孫作の編笠へと忍ばせた。

文を受け取った一豊は、先に編笠の文を読み、もう一通の文と西軍から届いた文の封を開かずに家康に差し出した。

千代からの文には、

「兼ねてよりの御志どおり家康様にお味方なされませ、私は武家の妻として辱めのないように務めます。どうかご心配されまするな。」

との内容が書かれていた。

三成の挙兵と大坂の様子がよく解った家康はたいそう喜び、同時に封も開けずに差し出した一豊の律儀さに感激したと言われる。

内助の功

お千代は織田家家臣であった山内一豊の嫁となった。

決して裕福ではなかった為、毎日の生活にも苦労の続く日々であった。

そんなある日、安土城下にて馬揃えが盛大にも行われると耳に聞いた一豊はお千代に愚痴をこぼす。

「実はお千代よ。近く御屋形様の午前にて馬揃えがかくも盛大に執り行われる運びとなった。
じゃがわしには御屋形様を満足させられるほどの駿馬等用意できるはずもないわい。」

丁度その話を耳にした頃、馬売りを目にした一豊は、その美しくも堂々とした駿馬に心を奪われていたが、到底手の届く値ではなかった。

同じことをくどくどと愚痴り続ける一豊を見つめていたお千代はコロコロを笑ってこう言った。

「旦那様よ、どうかこのお金を使ってその馬をお買いくださいませ。」

お千代は一豊に鏡台の底より取り出したる10両を手渡した。(明確な価値は不明だがアバウトに考えると1両=10万円ほど、10両なので約100万円ほどのお金となる)

一豊はその10両をもって駿馬を購入し、馬揃えにて披露した。

その姿を見た信長は側近にこう言った。

「我とてあれほどの馬を揃えるのは至難だが、我が家中におったとはあっぱれなものよ。名は何と申すのか?」

「あれなるは羽柴筑前が家人山内猪右衛門にござりまする。」

このお金はお千代が輿入れの際、「旦那様に一大事があった時に用立てよ」と父より渡されたお金であった。

孫作の苦労

関ヶ原の合戦の折、千代より文を一豊へ届けるようにと命じられた田中孫作は、美濃路にて盗賊に襲われた。
身包みを剥ぎ取られた孫作であったが、夜にまぎれて何とか逃げだした。その際、編笠と文は取られないように気を付けたが、盗賊達はなおも追ってくる。

孫作はある家の床下に身を潜めましたが、翌日になっても盗賊が探し回っていたので、その場から動く事が出来なくなっていた。

孫作は空腹に耐えかね、身を潜めている家にあった寿司桶を盗み、飢えをしのいだ。
その日の夜、盗賊の気配がなくなると、その場から立ち去り、途中で出くわした浪人から衣類を剥ぎ取って何とか一豊の許へとはせ参じた。

この時に手に入れた着物の紋「丸に六つ星」は田中家の家紋となったといわれる。
丸に六つ星

楫取地蔵

土佐藩主山内一豊を乗せた船が土佐国室戸岬沖を航海中に突然の時化(しけ)に襲われた。

船は傾き、今にも壊れそうなほどにキーキーと鳴き、水夫達も海へと飲み込まれていった。

これは大事であり、一豊以下全員が死を覚悟した時の事である。

突如どこからかも分からないまま、一人の僧侶が現れると、舵を取り、自在に船を操ってみせた。

無事に沈没すること無く室津の港へと入ることが出来た。

一豊はその僧侶に礼を言おうとするが、すでに僧侶は居なくなっていた。

近くの寺の僧侶に違いないと、一豊は部下に命じて探させるが、一向に見つからない。

直も探していると、津照寺(しんしょうじ)「四国八十八か所第25番札所」の御本尊である 延命地蔵の御体が塩水で濡れていた。なんと一豊を助けたのはこの地蔵菩薩であった。

この事からこの地蔵菩薩は「楫取地蔵(かじとりじぞう)」と呼ばれるようになった。