意地の降伏嘆願
羽柴秀吉の四国征伐の幕が落とされた直後から、忠澄は秀吉軍と戦う事の無益さを君主元親に言上していた。
しかし、元親は徹底交戦の考えを変えなかった。やむなく最前線である阿波国一宮城で羽柴秀長の軍8万を迎え撃つ事になった。
忠澄は奮闘し、数に任せて攻め寄せる秀長軍を相手によく持ちこたえた。
秀吉は「小城一つに何を手間取っている。さればわし自ら叩き潰してくれよう。」と激怒したが、秀長は冷静に一時休戦を提案。
秀長は早速使者を使わし、今更秀吉と戦う事の無意味さを語り説得したが、そのことを一番良く理解していたのは忠澄自身であった。
長宗我部軍の重臣会議では降伏論に傾いていたが、当主である元親は断固として交戦の構えを変えようとせず、忠澄に
「腹を切れ!」と激怒するありさま。
家臣も決戦を覚悟するが、忠澄もこれまた断固として考えを曲げず、三日三晩かけて重臣たちを説得し、連盟による願状を元親に渡した。
ついに元親も、
「我一人が戦おうと思っても、家臣が皆筑前に恐れをなしていようなら結果は明白であろう。」
と降伏することになった。
この降伏が遅れていれば長宗我部氏は秀吉によって滅亡していたであろう所を忠澄の忠誠により救われたのである。
涙の戸次川
秀吉の九州征伐へ参加した長宗我部軍は島津軍と戸次川で激突するが敗北する。そして、元親最愛の息子信親が討ち取られてしまった。
消沈する元親は忠澄に信親の遺体を引き取ってくるように頼んだ。戦後とはいえ、今だ交戦中の敵陣へ赴き、大将の遺体を引き渡せというのだから極めて危険な行為である。
しかも、島津軍の対象は猛将として有名な新納忠元であった。
決意した忠澄は敵陣へと向かうと、忠元は、
「我がその場におれば、決して信親公を討ち取るようなことはなかった。これは神に誓って私の本心である。戦の恒とはもうせ、まことに申し訳ないことをした。元親殿の心中をお察しいたす。」
と涙ながらに詫びた。
そして忠元は丁重に忠澄を扱い、僧侶も同行させて遺体を送り返した。
後にこの話を聞いた島津義弘も元親の心中を察して涙したと言われている。