土佐の戦国Data
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逸話・用語集 > その他の武将

武士の約束

  関ヶ原の合戦で、西軍は大敗し、多くの武将たちが敗走し始め、 武功を挙げようと東軍の緒将たちは我先にと追撃を始めた。
  東軍の将藤堂高虎の甥仁右衛門は、喉が渇いたので河原で 水を飲み飲んでいると、近くの草むらから物音がするのに気づいた。
 調べてみると湯浅五助が草むらにうずくまって潜んでいた。 湯浅五助といえば大谷吉継の重臣で、剛勇の武者として名のある者。
 これは良い敵を見つけたと喜んだ仁右衛門は、カラカラと笑いさっそく槍を持ち出して戦いを挑んだ。流石の五助も合戦の疲れで思うように体が動かず、槍で突かれその場に座り込んだ。その際槍が折れたので、仁右衛門は脇差を片手に襲い掛かろうとした。
 すると五助は
 「待たれよ。しばし御仁と話がしたい。」と言った。
 「実は私はここで主君刑部少輔の首を埋めておりました。刑部は病により大変見苦しい顔となっておりますれば、何卒そのままにしておいてもらいたい。しかし、敵将に見つかれば掘り起こされても文句は言えません。されば、私の首を変わりに手柄とされたし。」と言って願った。
 すると仁右衛門は刀を納め、
 「ご安堵されよ、この事を知っているのは私のみ。神に誓って一切の他言はしない。もちろん掘り起こしたりもしません。」
 その言葉を聞いた五助は、涙を流して感謝し、立ち上がって形だけ仁右衛門に襲いかかろうと迫った。
 すかさず仁右衛門は五助を討った。
 その後、五助の首を献上すると家康は、
 「これはこれは、大手柄である。その名を轟かせた湯浅五助の首を挙げるとは。しかし、五助ほどの者が主である大谷刑部の最後を見届けぬはずは無い。何か心当たりはないか?」
と訊ねるように重臣である本多正信に命じた。
 後日正信から質問を受けた仁右衛門は、
 「君主に隠し事をする訳にはまいりませんので正直に申しますと、大谷殿の首も存じております。しかし、私はここにおります湯浅殿と他言はしないと約束をしました。たとえ主の命であっても、武士の道を外すことは出来ませぬ。どうか御成敗くださりませ。」と頭を下げた。
 その言葉を本多正信から聞いた家康は大きくうなづき、
 「なんとも大した律義者よ。約束を破り、大谷の首を出せば家中でも一二を争そうほどの大手柄となったものを・・・」
と笑いながら話した。
 その後、仁右衛門を賞賛した家康は刀と槍を使わした。そして仁右衛門は大谷吉継の墓をつくり、毎年供養を行ったと云われる。

権力者の志

 島左近が石田三成と共に大坂城の天守閣に登った折。三成は天守から城下を見渡して、居並ぶ緒将にこう言った。
 「この天下争乱の時代、秀吉公の非凡な智謀と大器の心であまたの群雄を次々と従え、五畿七道を掌握された。そして今尚このように優雅に繁栄し、民の喜ぶ声が聞こえ、その歓声は天下に轟いている。秀頼公の永世を祈らぬ者などいようはずがない。」
 それを聞いた人々は「御意」と口々にうなづいたが、左近は城に戻ってから三成にこう言って嗜めた。
 「そもそも権力者の息の掛る土地には、昔から身分に関係なく人々は集まってまいります。 これは、権力者の人徳によるものとは限りません。民は自分にとって利のある方に就くのです。その結果が繁栄に繋がる事を知っていなければなりません。 大坂の待ちより二、三里も離れない場所には雨も満足にしのげない程の藁屋が建ち並び、衣食も貧しく飢えや病に苦しむ民が多く居ります。
 今豊臣家は安泰かにみえますが、この時こそ民を侮り、武力のみに頼るのはよくありません。 まず、将士を愛し、庶民の心を深く理解し、耳を傾ける主人であれば二心持つ者とて服従し、恨みを持つ者も疑いが和らぎ、たとえ力にて謀反を企てる輩が現れようとも、一檄にてたちまち秀吉公恩顧の緒将が駆けつけ、逆賊は降伏することでしょう。」
 しかし、結果として三成はこの左近の言葉を重要視しなかったため、自滅してしまった。

閻魔大王への手紙

 ある時、兼続の家臣が領民といざこざを起こし、その領主を斬り殺した事件が起きた。
 調べると家臣側に非があったので、兼続は謝罪と共に慰謝料を領主の家族に送ることにした。
 しかし、領主の遺族は「金はいいから死んだ本人を還して欲しい。」といっこうに歩み寄りを見せず抗議してきた。 兼続がいくら説得しても応じないばかりか、騒ぎを大きくして騒ぎ立てる始末。
 すると兼続は騒いでいた遺族たちを次々と斬り殺すと、死体に手紙を持たせた。
 その内容はには次のように書かれていた。
「閻魔大王へ
先ごろ死んでしまった者がそちらに行っていると思うが、家族たちが迎えにいくので、こちらの世界に戻してあげてほしい。 直江兼続より」

鬼の涙

 徳川の家臣である服部半蔵正成は、「鬼の半蔵」と呼ばれるほど、私情を出さずに任務を確実に遂行する武将であった。そんなある年、織田信長から恐ろしい命令が家康に下された。
 「武田と内応し、謀反の疑いがある家康の長子、信康を殺せ。」というものだった。
 家康は苦悩するが、お家存続の為に涙の決断をする。 信康に自害を命じ、その介錯人として半蔵が任命された。 当日、信康は堂々とした態度で立派に腹を開いた。
 そして首を刎ねようとした半蔵の目からは大量の涙が溢れ出し、刀を振るう事の出来ないほど泣き崩れてしまった。周囲にいた家臣が、やむなく苦しむ信康に対して介錯を行った。
 この事を聞いた家康は「鬼半蔵にも君主の子を切る事はできなかったか。」と呟いた。

息子への思い

 天下人秀吉の名参謀として名高い黒田官兵衛は、晩年家臣たちに対して口やかましく指図をするようになった。
 さらに、家臣たちの粗を探して罵ったり、意味も無く大声を出したりと知略家としての功績が信じられない程の振る舞いを繰り返した。
 ついに息子である長政は、官兵衛を問いただした。
 「父上の現状は、かつての栄光に泥を塗る行為です。何卒おやめください。」
すると官兵衛は、
 「家臣達がいつまでも私に従っておれば、私が居なくなった後の黒田家に何かと不都合がある。私に嫌気がさすと、自然とお主に家臣の信頼が集まる。おまえは何も知らない振りをしておればよいのだ。」 といって耳打ちしたあと、その場を去って言った。
 死に際に周りからあえて嫌われようと振舞う行為が全て自分の為だと知った長政は泣きながらその場に下座した。

生け捕り

 平塚越中守は平塚為広の弟で武力に優れた剛の者として有名だった。
 越中守が浪人の際、噂を聞いた徳川家康が召抱えようとしたが越中守は、「内府は吝(しわ)い人にて、言葉ばかり達者である。そのような御仁なれば知行を惜しみ、充分に取り立てることはないだろう。」
と仕官の話を断り、石田三成に仕えた。
 時は経ち、関ヶ原で西軍が破れて捕らわれの身となった越中守は家康の御前に引き立てられた。
 家康は、
 「我の誘いを断り三成に仕え。只今の様とは・・・さてもさても見事であるのぉ。」
と散々に嘲笑した。
 越中守は怒りを現わにし、
 「武将が戦場に挑みて、生け捕りになるは珍しい事ではない。 左様に申される人こそ、 幼少の折には今川の人質となり、続いて戸田に捕らわれ、さらに織田へ渡され、 尾張の天王坊(真言宗安養寺)に3年押し込められた憂き目(悲しい日々)もあろうに。自分が生け捕られたことを棚に上げ、人の身の上をとやかく批判するは片腹痛し!その上、太閤殿下の御遺命に背き、秀頼公をないがしろにする事こそ、武士の恥なり。我は左様な者を君主として仰ぎとうはない。早々に首を刎ねられよ。」
と話した。
 家康は憤慨すると立ち上がり
 「なんと憎き奴よ!直ぐに首を刎ねさせ楽を与えたりはしない。別条無く生かし、長き苦労をさせよ!顔もみとうない。縄を解き追い払え!!」
と命じて追放した。
 その後側近が家康になぜ成敗せずに生かしたのかと聞くと、家康は
 「越中守は無類の剛の者にて道理も心得ている。さらに弁舌もたつ素晴らしき武将である。これを殺すはさももったいなき話だ。のちに秀忠にでも忠吉にでも仕えさせれば助けになろう。」
と穏やかな口調で話したと云う。

敗北者への対応

  関ヶ原に敗北し、身を隠していたがついに捕らえられた石田三成は、 見せしめの為大津城門前に畳を敷き縄をかけられていた。
最初に通りかかった福島正則は三成に対して
「醜き私欲の為に、無益な乱を起こし、このありさまとは。これが五奉行として権威を振るった者の、なれのはてかな。」
と 罵倒した。
すると三成は、
「勝敗は天運なり。汝を生け捕りにしてこのように討ち据えてみたかったものだ。」
と言い返した。
正則はグッと三成を睨み付けて高笑いをしながらその場を後にした。
次に現れたのは、黒田長政と細川忠興であった。
長政は 「なんとも・・・そのような姿になっても、まだ命ながらえようとは・・・」
とあざけりの言葉を投げかけると三成は
「甲斐守よ、なんと愚かな事を申すのか。たとえこの両腕が斬り落とされようとも、我に命さえあれば家康を討ち取る事を願おうぞ。」
と答えた。
周りの従者達は口の減らない男だといって嘲笑したが、忠興だけは三成と視線を合わせず、
「家康公がお待ちである。」
といって早々に馬を進めた。
また、黒田長政は次のような対応をしたとも言われている。
長政は三成の姿を見ると、馬上から降り 三成に歩み寄り
「勝敗は天運とはいえ、さぞご無念でござったろう・・・」
と丁寧な対応をし、自らの羽織をぬいで三成に着せた。
敵将の予想外な情けに三成は無言であったという。
藤堂高虎は、三成を見ると馬上より降りて戦前と同じように接しながら、
「このたびの戦における貴殿の戦ぶりは敵ながら見事でござった。貴公から見てわが部隊の至らぬ点があれば、是非ご教授願いたい。」
と普通に話しかけた。
 すると三成は少し考えて
 「されば貴公の軍の鉄砲隊には身分の高き指導者がいなかったように思えた。そこが改善できれば鉄砲隊の威力も大きく変わろう。」
と答えた、高虎は一礼をすると、その場を後にした。
 その後藤堂隊の鉄砲頭には千石以上の力のある家臣を配属することをしきたりとした。
 三成が晒される前に登城していた小早川秀秋は、
 「どれどれ、憎き冶部少の面でも見に行ってやろうか。」
と言うと、細川忠興の制止を振り切り、ほくそえみながら城門の柱より三成を除き見た。
 するとその様子を見つけた三成が一喝し。
 「小早川秀秋に物申す!!日本国中を見渡したとて、おのれのごとき卑怯者があろうものか!忘恩の下郎がっ!!。」
と散々に罵った。
 秀秋は赤面し、その場から逃げるように去った。
 さらにこのような話も残っている。
 秀秋を罵倒した三成は、急に泣きそうな顔になり、秀秋の後方をみながら、
「これはこれは刑部殿(大谷吉継)さぞやご無念であっただろう。そのような鬼面な表情を私は見たことがございませぬものを・・・」
と頭を下げながら語りかけた。
 すると青ざめた秀秋は腰を抜かし、奇声を発しながらおびえ始めた。秀秋の従者はおどろき、秀秋を抱えながらその場を後にした。

大坂の敗北

 長宗我部盛親の家臣であった山上十兵衛は八尾の戦いにおいて藤堂高虎を死の一歩手前まで追い詰めながら逃げられてしまった。

 その後長宗我部軍は敗退し、大坂城は徳川幕府によって落城した。十兵衛はなんとか敗走し、身分を隠して土佐に戻り山内忠義に仕えていた。

 ある日、十兵衛が江戸藩の屋敷で門番をしていた際、偶然藤堂高虎が山内忠義を尋ねてきた。
 「むむ、お主はどこかで見た事がある顔じゃ。」
高虎は十兵衛の顔を覚えていて、八尾での戦いについて忠義に話した。

そして十兵衛は

 「確かに藤堂様の仰せられた通りです。豊臣方の敗北は、盛親様が藤堂様に負けた為です。盛親様が負けたのは私が藤堂様に一槍お入れした際、藤堂様の御馬は奥州の南部駒で、私の乗馬しておりました馬は土佐駒でございましたゆえ、逃げられてしまった為です。」

っと堂々とした口ぶりで話した。

 忠義は正直に話した十兵衛を誉め、200石の馬廻りに昇進させた。

 十兵衛は日ごろより
 「馬を大事にせよ。良き馬なくして戦での勝利は無い。」
と若い武士たちに教授したという。

天下人との対面

 太閤秀吉は九州平定を成し遂げた後、島津方の武将新納忠元と対面した。
 忠元と対面した秀吉はグッと睨みつけると静かにこう話した。
「まだ戦がし足りないのか・・・」
 忠元は背筋をクイッと伸ばすと堂々とこう答えた。
 「島津を敵に回されるおつもりならば、我が兵残らず何度でも太閤の軍と戦い続けます。」
 その威風堂々とした忠元に対して満足した様子でこう語った。
「島津を従えた事で太閤の軍勢は最強の軍となったわい。カッカッカ〜」
 と無邪気に笑っておどけた。
 そして秀吉は自ら羽織っていた陣羽織を脱いで、忠元に与えました。
謹んで頂戴した忠元に対して、さらに名刀「螻蛄首(ろうこくび)」を手に取った。
太閤が刀を手にしたことで他の諸将に緊張感が走った。
むろん、忠元も死を意識した。
「我が秘蔵の刀、これもつかわそうぞ。」
 秀吉は忠元の手を取って、刃先を自分に向けた状態で与えた。
 忠元は震えながら平伏した。
島津の陣へと戻った忠元は、対面時の様子を若武者に語った。
 「太閤は百姓出の成り上がりものと思うておったが、到底わしが手向かい出来る相手では無かったわ・・・この乱世において毛利、長宗我部、徳川までも従える度量は本物である。悔しきかなわしも腰が抜けてしもうたわぃ」
 忠元は秀吉を刺し殺そうと思い、謁見したのだが、胸元を開いて語る太閤の度量の前に何もできなかったと云う。

多門ヶ淵

  新開道善の家臣に賀島秀家なる者がいた。
秀家には娘があった。

代々賀島家は正福寺を檀那寺(だんなでら)としていた。
ある時の法事で、正福寺の若坊主多門(たもん)が、秀家の娘と出会い互いに一目惚れをした。

武家の娘と修行僧では身分も違い、なかなか会うことも叶わなかったが 事あるごとに家を出て正福寺の鐘築堂にて逢瀬を重ねていった。

そんな秘事が長く持つ訳もなく、ついに二人が逢引している所を住職に見られてしまった。

娘は、部屋に押し籠められると、外出を禁じられた。
しかし、若娘の恋心を止める事は出来ず、夜な夜な抜け出しては多門の下へと逢いに行った。
多門は修行中の身に関わらず女と交わる事を咎められ、破門の受けて寺から追放された。

多門と娘は、
「もうこの世で添い遂げる事は叶わず・・・」と

腰ひもで互いの体を堅く結びつけると、琴江川の淵に身を投じた。

その後、正福寺の鐘は「たも〜ん、たも〜ん・・・」と鳴り響くようになった。
よく調べてみると、鐘に通常付くはずもない傷があり、しかもその個所が裂けていた。

鐘を修理に出そうと、荷車に乗せて二人が身を投じた淵の側を通った時、
突然荷車から鐘が生き物のように飛び出でて淵の中に沈んでいった・・・

後に人々はこの淵を「多門ヶ淵」と呼ぶようになった。

切腹の作法

1615年(慶長19年)大坂にて豊臣家と徳川家の決戦が終結すると徳川家は豊臣の見方をした長宗我部盛親を京八幡にて捕縛すると、罪の連座という形で当時肥後の加藤家に奉公していた弟の右近大夫も捕らえて、京伏見に送られた。
右近太夫も含め旧長宗我部家の多くの者は、加藤清正が父元親と入魂の仲(親友)であった縁から関ヶ原後加藤家に身を寄せていた。その清正も既に他界し、2代藩主忠広(ただひろ)はこの時若干14歳であり、徳川に逆らうことも出来ず右近大夫を匿う事もしなかった。

右近大夫には長宗我部時代からの家来小宮崎久兵衛(こみやざききゅうべぇ)がおり、久兵衛は供をして京に上った。
伏見に到着した右近大夫は、藤堂和泉(藤堂高虎)を検使として、切腹の沙汰が下った。
※検使とは切腹の現場に立ち会って最期を見届ける役目
久兵衛は長宗我部一門では無いので当然切腹の沙汰は下らなかった。
しかし久兵衛は高虎に「私にも切腹の沙汰を受けたわまりたく候」と懇願するが、 高虎は「御上(徳川幕府)よりお主に対しての処分は何も聞いておらぬ。我の一存にて許可などできようはずもない」 と久兵衛を諭した。
それを聞いた久兵衛は右近大夫に向かって
「我が主長宗我部右近は、切腹の作法を未だ知り申さず。家臣として主にこの事を事前に説明せざるは不忠の極みなり。これ、死罪に余りある大罪。よって只今よりご切腹のありやう御指南申し上げる。とくとご覧候え」
と言い終わらない内に羽織を脱ぎ、脇差を天高くあげて右近大夫がしっかりと見ているのを確認すると、コクリと頷きそのまま自分の腹を十文字に掻っ切り
「かく切らせ給え」
と叫ぶと笑いながら絶命した。

右近大夫は
「ようわかった久兵衛よ、この右近。長宗我部の一門として立派にその手本通りに切り候ぞ」 と高らかに笑いなが見事に切腹した。

その様子を見ていた高虎は手を合わせ黙祷し、
「元親様。ご子息のご立派な最期、この高虎しかと見届け候」
と静かに呟いた。