白滝橋
長宗我部信親の愛馬は純白の鬣(たてがみ)を持ち、走る姿は滝の様であった為、「白滝(しらたき)」と呼ばれていた。
天正十四年、九州戸次川にて馬主の信親は島津軍によって無念にも討ち取られてしまった。
白滝はその場に取り残されてしまったが、いつまでも信親の亡骸があった川の辺りで
いつまでも留まっていた。
その様子を見た者は、まるで主の帰りを待っているかのように切なく映った。
地元の民はこの様子を語り継ぎ、この地に橋を架ける際、「白滝橋」と名付けた。
現在もこの橋は残っている。
太閤の言葉
島津征伐での豊後軍は仙石権兵衛秀久の無法と、多勢の敵方によって
散々に打ち負かされた。
十河、田宮らあまたの武将、兵がむざむざと討死し、権兵衛ら豊前にまで逃げ帰った。
さらに弥三郎(長宗我部信親)が討死、宮内少輔(長宗我部元親)も行き方知れず
生死さえ定かでないという報告が続々と大坂に届いた。
逐次聞き及んだ太閤(豊臣秀吉)は大いに立腹し、
「元来権兵衛は猪武者で、後先考えられぬ阿呆であれば、散散に渡り決して島津を侮る
ベからず、軽々しく勝手に一人駆けはいたすな。
何事においても皆々同意の旨において慎重に
事を運ぶべし。特に宮内少輔の言葉を頼りにせよ。と命じておったに・・・
あの阿呆は宮内少輔の諫言尽(ことごと)く蔑(さげす)み、罵ったという。
詰まるに元親に恥辱を与えんとし、良策に逆らったのであろう。
これまさに卑しき下人の心なり、清い武士(もののふ)にあらず。
その一方で弥三郎は同列の罪として潔く討死した。まさに武人の誉れなれど不憫この上なし。
かの信長公の覚えも高く、御自ら養子に貰い受けたいとまで言わせた若者を、このような無益な戦
によって失うとは。今更悔やんだところで是非に及ばず。
この上宮内少輔まで討死しようものなら、土佐は狼狽し、一揆が起こるやもしれぬ。」
太閤は信親忠死の跡として土佐国政の事を下した。
上使(じょうし)として増田長盛、藤堂高虎を土佐へ遣わした。
御朱印の内容は
「此度の戦において長宗我部親子相果てたとしても本領安堵とし、跡は次男五郎次郎(香川親和)
に遣わすべし」
使者への対応
1585年(天正13年)水無月羽柴秀吉は命に従わなかった長宗我部元親に対して四国征伐を決定し、
宣戦布告の使者として片桐且元を遣わした。
伊予国大浜の城に赴いた且元は城の門前にて
「某(それがし)、内大臣羽柴秀吉の使者にて片桐且元と申す者なり。
城主長宗我部信親殿に言上すべく
参上仕った。御開門されたし候」
と言った。
元親が秀吉の一方的な要求を拒んだことは既に家中に知れ渡っており、城兵達はただただ騒めいていた。
城代であった弥三郎信親は
「さすがは片桐殿。使者の作法故実に叶い誠に以て見事なり。
使者への対応に落ち度あらば我ら、引いては
父上の評判を落とし、南海の田舎者は礼節を弁えておらぬ愚か者なりと笑われるは必定。
そうなれば末代までの
恥辱なり」
と言って、丁重に且元を出迎えた。
且元を案内した信親は、彼を上座に導いた。
驚いた且元は
「これはこれは、信親殿。貴殿はこの城の城主であり、尚且つ長宗我部の御嫡子。
私は使者なればどうぞ上座にて
言上の旨お聞きくだされ」
と丁寧に話した。
それを聞いた信親は、
「此度は、かの賤ヶ岳七本槍と称された片桐殿に出会えた事で我が胸が躍っておりまする。
さらに貴殿は内大臣の御使者でいらっしゃる。
対してこの信親は若輩者で無位無官の身なればどうして上座に
座れようか。
この無知なる若僧に片桐殿の武勇伝等御聞かせいただき、戦の心得などご教授願いたく候」
と言うと、深々とお辞儀をした。
その若々しく、凛とした表情に、ただただ感心した且元は
「されば、これより御大将羽柴秀吉と長宗我部殿は一戦交える事になりましょう。
この助作。内大臣羽柴秀吉の家中として、長宗我部殿の上座など甚だ恐縮ではございますが、
御免被ってこの場より口上を述べさせていただく。」
宣戦布告の弁を真摯に聞いた信親は
「わかり申した。その旨、この信親が責任もって我が主に伝えまする。」
と真剣な眼差しで且元をキッと睨みつけた後、再び無邪気な顔に戻り
「では、且元殿。戦の心得を私にお教えくだされ。」と歩み寄った。
この若者の度量の大きさ、威風堂々とした振る舞いに亡き信長公の面影がよぎった且元であった。