土佐の戦国Data
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逸話・用語集 > 長宗我部盛親

関ヶ原での選択

西軍として家康と戦った盛親であったが、関ヶ原では吉川広家の計略により、栗原山から動けず結局 土佐へ逃げ帰った。
盛親は親しい井伊直政に家康への謝罪の意を示しながら、一方では軍備を進め、戦に備えていた。 まもなく直政よりの使者が到着すると
「心より盛親殿に謝罪の念がおありなら、すぐさま大坂へ赴き家康公の御前にて、直接謝罪するべきである。」
と直政の言葉を伝えた。
盛親は大いに悩み、重臣からは
「このまま少数にて上坂すれば、たちまち殿は家康に捕らえられてしまう。」 といって上坂を控える声も上がった。
さらに 「関ヶ原より退陣せりし折りにも土佐までは追っ手はこれなかった。このまま浦戸、もしくは山中へ籠もり 抵抗すれば、さすがの家康も諦めるだろう。」 といった抗戦案まで浮上する始末。
その時、筆頭家老である久武親直が一括してこういった
「徳川殿は豊臣方の抵抗勢力を壊滅させ、天下をとったも同然。我らがどれだけ抵抗しようとも勝ち目はない。 むしろ長宗我部の名を汚す行為である。
徳川家康と先代元親公とは入魂の間柄であった。そして今も家康の重臣井伊直政殿の口利きもあれば、 家康とて我らの申し入れを無下にはすまい。 殿が堂々と大坂に出向き、誠意を持って謝罪の意を申せば必ず許され、本土安堵も約束されようぞ。」
この助言に盛親の決心も固まり、上坂する運びとなった。

柏尾観音

1600年(慶長5年)関ヶ原の敗戦により土佐に戻った長宗我部盛親は大坂にいる内府徳川家康に 謝罪と弁明に向かう事を決定し、先だって道中安全祈願の為柏尾観音へ参拝した。
盛親の一行が向かっていると。観音堂より白いモヤようなものが天高く立ち上がった。
突然の出来事に盛親一行が見つめていると、忽ち薄くなって消えてしまった。
その光景は白い龍が観音堂より昇っているように見えたので一同大いに喜んだ。
すると観音堂の上部に再び白いモヤが発生し、観音様の御姿のようになった。 しかし、このモヤも忽ち薄くなって消えた。
これは吉凶いずれの兆しかと各々が話していると、観音堂より凄まじい炎が上がった。
慌てた一同は急いで観音堂まで駆け付けたが、一刻半(約3時間)燃えに燃えた後観音堂は燃え尽きて 灰となった。
盛親はその光景をただただ見つめる事しか出来ず、引き返した。
下々の者は噂した
「これは観音様が長宗我部を見放したのではないか・・・」
後日徳川は長宗我部を許さず、改易の沙汰が下った。 奇しくも新しい土佐の領主山内家の家紋は三つ柏であった。
土佐藩二代藩主山内忠義は柏尾山の山頂に「観音正寺」を再興した。 今でも高知市春野町に「柏尾観音トンネル」という名前が残っている。

盛親の執念

大坂の陣で豊臣方の敗北が明白になると、盛親は大坂城から逃亡した。
しかし、程なく山城八幡に潜んでいた所を蜂須賀隊によって捕らえられてしまった。
取調べの際、徳川の武将が、
「そなたは大将であるのに、なぜこのように捕らえられたのだ。大将らしく、自害すべきではなかったのか?」
と訊くと盛親は、
「そのほうが申す通り私は大将である。落武者ならば斬り死にするも、自害して果てるもよろしかろうが、私が生き延びようとするのは、脱走して再び軍を整え、徳川殿と一線を交えようと思うからよ。これが大将としての心得である。」
と答えた。
これを聞いた者の半数は感心し、半数はあざ笑った。

大坂の陣に敗北した盛親は、捕らえられて見せしめの為二条城門外に磔られた。
雨ざらしであった盛親を通りがかった島津家久は、笠をかぶせたと云われている。
笠を与えられた盛親は、
「我はこの様でござれば、濡れたところでなんとも無い。それより島津殿こそ御登城の折に濡れていては困るであろう。」
といって断った。

敵将の兜

大坂夏の陣の中、八尾の戦いに敗れた長宗我部盛親は、大坂城に撤退した際、大坂城勤番に、
「藤堂家に送りたい物があるゆえ、届けてくれまいか?」
と頼んだ。
なぜかと尋ねた勤番に盛親は、
「この大坂城は明日にでも落城するであろう。そこで八尾においての戦で討ち死にした、藤堂氏勝の兜を藤堂家の遺族に返してあげたいのだ。」
と話した。
勤番はその役目を受け、氏勝の遺族に無事兜を渡し、盛親より聞いた氏勝の最期をしらせた。
その兜は藤堂家の家宝となっている。

盛親夫人と国照

長宗我部盛親の妻は盛親の兄弥三郎信親の娘であった。
元和元年(1615年)5月、長宗我部盛親及び、その息子らは幕府への反逆罪により 京都六条河原にて斬首の刑に処された。
夫人は夫が徳川に捕縛された事を伝え聞くと、心を痛め京都まで上る旅路にでたが、 道中にて夫が処刑された事を聞かされた。

夫盛親の死を知った夫人はことのほか傷心してその場から歩くことも出来ない程泣き崩れたが、 徳川よりの追っ手が迫る危険もあり、土佐へと逃げる事にした。

その間も悲しさの余り泣き続け、とうとう盲目となってしまった。
少人数の家来と愛犬國照(くにてる)は夫人と供に大坂より阿波へと上陸し、海部の浜に出る為、 難所であった鉦打坂(かねうちざか)辺りで道に迷ってしまった。
何とか下原(しもばら)にたどり着いて休息を取れたが、そこで盛親夫人であることを知った卑しい輩達によって 襲われてしまう。瀕死の重傷を負ってしまった夫人らは那賀川(なかがわ)の溝に身を投じてしまった。

この時、國照は夫人の纏っていた血染めの羽織を身にまとって土佐へと走り出した。国照もまた傷を負っており ほどなく息絶えてしまった。
里の者は夫人を憐み、墓を作って供養した。
さらに元和三年には、故郷である土佐が観えるようにと後世山(ごぜやま)の山頂に神社を建立して祀った。 神社の狛犬を忠犬であった国照として共に祀った。

一方夫人を襲った輩の一族は代々盲目の子供が生まれてしまうと伝わった。
現在の徳島県阿南市福井町久保野にある後世神社は眼の病気にご利益があると崇められている。

井伊直孝

二条城門外に磔られた盛親は、出された食事の粗末さに落胆していた。
そこに通りがかった井伊直孝が気づき、直ぐに美膳と交換させた。
また、徳川秀忠との引見の際、秀忠から
「この度の戦において、東軍で功のある武将は誰か?」
と尋ねられると、盛親は真っ先に井伊直孝の名前を挙げ、
「大坂方の敗北は、私が彼に負けたのが原因である。」
と言った。