土佐の戦国Data
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逸話・用語集 > 長宗我部元親

土佐の蓋・四国の蓋

 1577年元親は四国四県の中心にある交通の要、阿波国白池を手中にして讃岐へと乗り込もうとしていた。
 そんな折、元親と家臣たちは、阿波と讃岐の境、雲辺寺山に登って山頂からの絶景を見下ろしていた。
 そして傍らにいた雲辺寺の住職に、
 「我は今土佐を平定し、いずれは四国平定を望んでいる。貴僧はどう思われるか?」
と尋ねました。
 すると住職は、
 「茶釜の蓋は水桶の蓋にはなれませぬ。貴殿は土佐一国の蓋にはなれても四国全体を覆う蓋にはなれないでしょう。」
と平然と言い放った。
 怒りをあらわにする家臣をよそに元親は、
 「我が蓋は、元親という名工が鋳(い)ている蓋である。薬缶の蓋は名工によって鋳られると小さくとも大きな薬缶の蓋ともなると聞く。されば我とてやがては四国全体を覆う蓋となりたいものよ。」
と優しく、そして堂々と話した。
 住職は元親に向かって静かに合唱し頭を下げた。
雲辺寺からの展望

鬼若子の器量

 阿波攻めの際、三好家より降伏した岩倉城主の三好康俊は、織田信長の先陣として父康長が阿波に侵攻して来ると元親に反旗を翻した。
 しかし、元親は裏切った康俊の人質を、康俊の元へ無傷で送り届けた。
 康俊はてっきり殺されたと思っていた人質が、無事に戻ってきた姿を見ると、
 「元親殿がこのような御仁とも知らず、敵対したことは愚かであった。この恩は七度生まれ変わっても決して忘れるものではない」
と土佐の方角に向かって拝んだという。

鉄砲狭間

 文禄の役、朝鮮半島へ出兵した日本軍が制圧した泗川(しせん)城の普請を担当していた垣見家純は、部下に対してこう言い放った。
 「鉄砲狭間はもっと上で切るようにいたせ。」
すると丁度通りがかった長宗我部元親は、
 「鉄砲狭間を胸の丈で切っては高すぎる。腰の辺りで切るのがよかろう。」
といった。
 すかさず家純は、
 「長宗我部殿、そんなに低く切っては敵兵に覗き込まれまするぞ。」
といって反論した。
 元親はゆっくりとした口調で言った。
 「城内を覗き込まれるほど敵兵に攻め寄せられたのなら、もはやこの城は落ちたも当然である。そもそも、鉄砲狭間をそんなに高く切って、御仁は敵の頭上を撃つおつもりか?」
もはや家純には返す言葉も無かった。
高知城の鉄砲狭間

天下人との謁見

 1585年に行われた四国征伐で降伏した元親に対して秀吉は、
 「上方に出向き挨拶せよ」
と命じた。
 降伏したからにはやむ終えないと、元親もその命に従おうとしたが、家臣たちは、
 「出向けば殺されるかもしれません。もし出向くのであれば大軍を率いて行かれませ。」
と案じたが元親は、
 「もし、おまえたちの言ったように秀吉が嘘をつくような人物なら、大将の器ではない。しかし秀吉は天下人である。天下日とは自分の言葉を大切にするものだ。相手を信頼する事がなによりも大事なのだ。恐れずに行けばよいのだ。」
と言ってわずか50名ほどの部下と共に大坂へ出向いた。
 すると、 謁見した際、秀吉はすぐさま立ち上がり元親の元に駆け寄ると、手を取り、
「これはこれは、遠い所ようまいられた。この度はよくぞご決断召された。感謝いたす。これで無駄な血を流す事も無くなった。」
と大喜びで語りかけ、元親を大いにもてなした。
 元親の言葉どおり、秀吉は自分に従った武将を厚くもてなす天下人であった。

天下人の饅頭

天下統一を果たした秀吉は、自分に従った大名を呼び集めて舟遊びをした。
その際秀吉はそばにあった饅頭を一つずつ大名に与えていった。
大名たちはもらった饅頭をその場で食べたが、元親は饅頭の端だけ少しかじり、残りは紙に包んでしまった。
それを見た秀吉は、
「元親よ、その饅頭をどうするつもりだ?」
と訊くと元親は、
「太閤殿下のお手より賜った饅頭です。私一人で頂くにはもったいのうございます。されば後で部下にも分け与えるつもりでした。」
と言った。
秀吉は満足げに頷くと、残り全ての饅頭を元親に与えた。

南海の覇者の言葉

小田原北条氏を滅ぼした天下人秀吉は聚楽第にて大名たちと酒宴を開いていた。
秀吉は元親と話をしている際、ふとこのような言葉を投げかけた。
「時に宮内少輔よ・・・うぬは四国の覇者を望んだのか、それとも天下を望んだのか?」
それまで和やかな顔で秀吉と歓談していた元親は真剣な顔となり、
「もちろん天下を狙うておりました。」
秀吉はカラカラと笑うと、
「そのほうの器量では到底難しかろうに。」
と言った。
元親はさらに真剣な顔で秀吉をクッと睨みながら、
  「さても悪しき世に生を受けてしまい、天下の主となり損じましてございます。大慶の君と同じ時に生まれ出でてしまったことが全く持って元親の不幸であり、なんとも悔やまれる事でございます・・・」
 と苦虫を噛み潰したような顔をして、うなだれた。
 秀吉はその様子をキリっと一瞬にらみつけると、藤吉郎の頃の無邪気な笑顔となり、
「それでこそ、我が誇りとなる家臣よ、次の茶会は宮内少輔の屋敷で執り行う事とする。」
 と満足げな顔で他の大名に宣言したと云う。

大きな献上品

ある日、浦戸湾に巨大な鯨が迷い込んだ。
その報告を受けた元親は早速太閤秀吉に献上する事とした。
数十の船を連ね、700名を超す水夫を総動員して浦戸から大坂城へと鯨を運んだ。
その光景を目にした秀吉や側近、淀の方は大いに驚き
「天下広しと言えども、かくの如く盛大にして豪華な品を持って参れるのは南海の覇者以外におるまいて。」
と目を丸くしながら満足げに語った。
元親は褒美として「丸鯨到来未曾有義也」との朱印状と米800石を与えられた。