土佐の戦国Data



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岡豊城本丸跡

おこうじょう

情報(特徴)

岡豊山航空写真

 岡豊城は、鎌倉時代に信濃(現長野県)より移住してきた「長宗我部能俊」が築城したと言われています。香長平野を一望できる丘陵であった岡豊山は天然の要害として、周辺の湿地帯にも守られた堅固な城でした。

 以降長宗我部家の居城となっていましたが、1509年に周辺豪族達によって落城、当主であった長宗我部兼序が自刃してしまい、兼序の息子であった千雄丸(後の国親)は、土佐中村一条家の元へ落ち延びて保護されました。

 その後、一条家の下で元服した国親は一条家の取り計らいによって旧領へと戻り、岡豊城に再び入城しました。国親は岡豊城の改修を行い、土佐中部の覇権争いに名乗りを上げることとなります。そして、長宗我部家は瞬く間に強力な力をつけ、本山家、安芸家と並ぶ土佐の有力勢力となりました。

 国親の死後家督を継いだ元親も、この岡豊城を拠点として土佐を統一し、さらに1585年には四国統一を成し遂げました。

 しかし、時の権力者羽柴秀吉の前に敗れ、土佐一国へと領地を縮小させられると、1588年、元親は居城を大高坂城へと移します。しかし、大高坂城周辺は水はけが悪く、水害に悩まされ、再び岡豊城を居城としました。

 1591年、元親は港町として商業が発展していた浦戸に目をつけ、居城を浦戸城に移すと、岡豊城はそのまま廃城となり、その役目を終えました。

見取図

 蛇紋岩からできた岡豊山は、詰と呼ばれた曲輪を中心として、東に詰下段と二のノ段、南から西にかけては三ノ段が取り囲んでいます。さらに、三ノ段を囲むように四ノ段があり、虎口と呼ばれる出入り口が造られています。

 虎口を守る為の空堀や各曲輪の周りには堅堀と呼ばれる堀が確認されており、敵の侵入を喰い止める工夫が施されています。詰の西には伝厩跡曲輪(でんうまやあとくるわ)と呼ばれる出城があり、周囲を急斜面で守られた堅固な造りとなっています。

Photo

岡豊城跡入口

岡豊城跡入り口

いきなり急な坂となっています。子供と一緒に行きましたが、ベビーカーでは厳しいですね。
しかし、この急斜面もまた、城を守っていたと考えれば仕方ない気もします。

右に見えるのは「トイレ」です。

二ノ段への階段

入り口から東へ向かいますと、大きな看板と二ノ段へ続く階段が現れました。

岡豊山からの眺め(北)

二ノ段への階段から北を見ると四国山脈が見え、すばらしい景色でした。歴史民族資料館へ降りる階段もありました。逆に言えばここから上ってくればあの急な入り口を登らなくても・・・

二ノ段 二ノ段

結構広くて、子供が遊ぶのにちょうど良い場所です。広場と共にテーブルと椅子もあり、ピクニックにもいいですね。ただ、周りにフェンスが無いので、ボール遊びなんかをすると誤ってボールが落ちていってしまうかも??

日当たりは最高に良かったので、晴れた日にござを敷いてゆっくりとしたいですね。

二ノ段 二ノ段からの眺め(東)

この場所からの眺めは本当にすばらしいです。まさしく絶景!!香長平野(南国市)が一望できます。

土佐国分寺跡なんかも見えると案内板に書いていました。戦国時代とは少しずれると思いますが、土佐の歴史で考えると一度は行ってみたい場所ですね。

二ノ段から詰へ

二ノ段から西に進むと、詰へと進む階段がありました。堀切と井戸跡なんかもあったようですが、草が多くて解り難かったです。この階段を上りきると詰(本丸)です。

詰下段

詰への階段の途中に広場がありました。これが、詰下段です。

詰を守る場所だったらしく、二ノ段全体を見る事が出来ます。ここから二ノ段に向けて弓矢等を射掛けていたのでしょうか?

結構広いスペースで、日当たりも良かったですよ。

三ノ段への階段

詰下段の南側には、三ノ段へ降りる階段がありました。少し急な階段ですので、雨の日などはちょっと怖いかも

この階段自体が当時からあったか解りませんが、城の東西を行き来するには最適だと思います。

こちらから三ノ段へと進みました。

三ノ段(南側)

三ノ段の南側は細長い平地で、大量の草が生い茂っていました。あまり広くないので、通路といった印象を受けましたが、この三ノ段のおかげで、詰の南が守られていると感じました。

下を覗いてみると、どこからが崖か解りませんでした。
注意が必要です。(汗

詰へ

三ノ段を西に進んでいくと、詰への階段が見えてきますさて、いよいよ詰(本丸)へ上ってみます。三ノ段からの急な階段を上ると・・・

(出演は息子です。)

詰(1)

広い平地が広がります。さすがは本丸。すばらしい眺めです。石碑や跡があり、「ここに元親がいたのか・・・」としばらく思いにふけっていました。

詰(2)

この場所に2階建て程度の館(大坂城みたいな城ではなかったようです)風建物があったと考えられているそうで、そこからの眺めはさぞすばらしかったことでしょうね。

周辺にはベンチなども多くありましたので、お弁当を持ってきて食べても良かったかなと思いました。

詰(3)

詰の北側には小さな祠もありましたが、お賽銭箱などはありませんでした。勉強不足ですが、案内板らしき物も無かったので、詳細は解りませんでした。

詰から三ノ段西側へ

詰で息子が「どんぐり」を拾いつつ、これまた急な階段を西側に降りました。

そこには初めて城らしい??三ノ段の西部分がありました。土塁が周りを囲み、敵を袋の鼠にして討取るような地形となっているようで、少し身震いがしました。

三ノ段西側

三ノ段西側の北半分には、建物があった事が確認されています。

誰かの寝所か、台所か、物置小屋か・・・想像すると楽しくなってきます。

三ノ段から四ノ段へ

三ノ段の南西には四ノ段への階段がありました。少し曲がっているようでした。

なんだかアニメに出てきそうな風景でした。

四ノ段

これが四ノ段です。木々の影響からか日当たりが少し悪く、薄暗い印象を受けましたが、広さは二ノ段よりも広いくらいかなと思います。

写真の逆側には大きな石碑がありました。その下には展望公園もあり、少し休憩するには最適だと思います。

四ノ段から三ノ段を見上げるととても高くて、隠れる場所もありませんから、敵からすればこの場所が一番の難所であったと考えられます。

虎口 虎口(こぐち)

詰への入り口にあって、侵入を防ぐ非常に重要な場所です。四ノ段の北側にありました。

元々は小口と書くらしいのですが、虎の口のような形状になっているから付いた名前のようです。入り口といいながら非常に狭い印象を受けました。

空堀 空堀

虎口からさらに降りると、今度は空堀がありました。今はだいぶ埋め立てられているようですが、その面影は十分に確認できました。

特に空堀から曲輪を見上げると、「あそこから弓で射られたらひとたまりも無いなぁ・・・」と感じ、しばらく眺めていました。

季節や天候にもよるかもしれませんが、私が行った時には吹き飛ばされそうなくらいの風が吹いていました。

伝厩跡曲輪へ

空堀から急な坂を降りると伝厩跡曲輪へと進む事ができます。急な坂でしたので、転ばないように注意が必要です。

写真は坂から上を見上げて撮りました。岡豊山がいかに急斜面であるかが解ります。

伝厩跡曲輪 伝厩跡曲輪

最初この名前を見たときには、正直「なんじゃこりゃ??」と思ったのですが、出城だったんですね。一般的に想像する城よりかは簡素化したものだったと思いますが、これまた急な坂を上ると楕円形の平地が現れ、石碑等も立っていました。

眺めは最高でした。遊具付きの物見所がありましたので、是非訪れた際は見てください。