こうそうじょう 香宗 城 |
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情報(特徴)
香宗城は1193年に甲斐武田氏の一族であった一条秋道が土佐国香美郡(現香南市)に下って400年もの間栄えた香宗我部家の居城でした。秋道の後見人であった家臣の中原秋家は後に山田に移り、山田家の祖となります。 秋家は土佐国の「宗我(そが)」と「深淵(ふかぶち)」と呼ばれる地域(郷)一帯の地頭に任じられて、以後代々香宗我部家が、この職を受け継いでいきました。 戦国時代に入ると、豪族間の争いが絶えず、当主であった親秀も大忍庄と言う土地を巡って安芸家と争っていました。その争いの最中、期待の長男であった秀義が討死します。失意の親秀は弟の秀道を養子にして、家督を譲りました。 しかし、香宗我部家の立場はますます悪くなり、東からは安芸家、西からは長宗我部家が侵攻してきました。 このままでは香宗我部家が滅亡すると考えた親秀は、長宗我部国親の三男、親泰を養子に迎えて、当時破竹の勢いだった長宗我部家の一門に組する計画を立てます。 当然現当主である秀道は反対しますが、親秀は家臣に秀道を殺させて強引に親泰を養子として迎え、家督を継がせました。 非道であった親秀の選択も、結果的に香宗我部家を残す事に繋がります。親泰の活躍によって香宗我部家は息を吹き返します。宿敵であった安芸家の滅亡後は安芸城へ入城し、長宗我部軍の東を固める勢力となりました。 居城が安芸城へ移った事で、香宗城はその役目を終えました。 その後、この城がどうなったのかは不明ですが、現在は香宗川の脇にひっそりと石碑が残るだけとなっています。 |
見取図
実は私の子供時代にすんでいた場所のすぐ近くなんです。よく遊んでいました。当時はこれが香宗城跡だったなんて夢にも思いませんでしたけどね。正直誰かの家の庭だと思っていました。 周辺の様子から城というより、むしろ館のような構えだったと想像できます。地頭という立場から立派な建物であったとは思いますが、なにせ資料が無さ過ぎて・・・ おそらく、領地開拓によって、形すらなくなっていると思われます。生粋の歴史オタク以外は、来たとしてもあくびが出るくらいつまらないと思います(汗 |
Photo
石碑 | |
立派な石碑がありました。これが唯一?の歴史的な臭いを出しているものではないかと思われます。 |
八幡様 | |
石碑の隣に緩やかな階段があり、頂上には八幡様がありました。 |
看板 | |
たて看板もありました。これは道路脇でしたので、発見しやすいと思います。 |
香宗川 | |
子供の頃よく遊んだ香宗川です。 |
香宗川から見た城 | |
ビニールハウスの上にかろうじて見えています。本当に民家と同化しているようです。 |
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