土佐の戦国Data


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あきじょう

情報(特徴)

安芸城南城壁  

安芸城は、1300年頃に豪族「安芸親氏」が安芸川の傍にある小さな丘に築きました。安芸市は壬申の乱(672年)でこの地方に落ちてきた蘇我一族の子孫とされています。

戦国時代には「土佐七豪傑」の一人と言われた「安芸国虎」の居城として有名で、長宗我部元親のライバルとして戦いました。

1569年には長宗我部家に攻められます。国虎は城から出て抗戦しますが、敗北し安芸城に退却します。しかし、既に長宗我部別働隊により攻められ、しかも長宗我部に寝返る武将が沢山出てしまい最後は浄貞寺で城内の部下の命と引き換えに自害しました。

その後、安芸城には元親の弟である「香宗我部親泰」が入城しました。

時は移り、関ヶ原後入国した山内一豊の家臣「後藤為重」がこの安芸地方を治め、城横に屋敷を構えますが、江戸幕府の「一国一城令」により、廃城となりました。

見取図

 

安芸城は直ぐ東に安芸川、北には天然の崖(城淵)、西には安芸川から分かれた矢の川(今はあるのかな?)で囲まれて、南も堀で守りを固めた堅固な城でした。

本丸を守る曲輪(段)や土塁、石垣も装備されており、今もその面影が残っています。

Photo

安芸城跡を遠くから

安芸城跡を遠くから

安芸城跡の横にある安芸川の対岸(内野原公園川のゾーン)よりの撮影です。

規模的にもそんなに大きくはなかったように感じます。

ここに国虎がいたと思うと血が騒ぎますね。

安芸城跡入口

安芸城跡入り口

安芸城の横にある歴史民族資料館の入口と同じです。駐車場らしきものは無く、道に横付けする形で駐車しました。

少し分かりづらいですが、バイパスから安芸川沿いの道(西側)を北に進むとわかると思います。

建物の後ろに見える林のような場所が安芸城跡です。

看板 入口の看板

看板がありました。結構周辺にも歴史的建物があるみたいです。今回は安芸城跡が目的でしたが、今度は別の場所も探索してみたいですね。

<<はい、ポーズ>>

道 資料館脇の通路を西へ

入口から道なりに西へ進む道があります。写真は道を東向いて撮ったものです。画面の右に何かの絵が見えますね。

看板 一豊公の武勇伝!

これは山内一豊の武勇伝を紹介したものでした。ビッグサイズでしたので、読みやすいと思います。

しかし、なぜこの場所にあるかは不明でした。(もっと目立つ場所でもいいのでは・・・)

ひょっとして国虎の武勇伝紹介もあるかと思ったのですが、見つかりませんでした。

安芸城跡の丘 安芸城跡の丘

道をさらに進むと開けた場所にでます。ベンチなどもありました。

丘と言うよりかは林と言ったほうがよいかもしれません。城跡らしくはありませんでしたが、道の先には建物がいくつかあります。

今回は時間が無くてあまりゆっくりと調べる事ができませんでした。

安芸城跡の紹介看板

安芸城跡の上り口には、安芸城を紹介した看板がありました。結構詳しく書いてくれていましたので、一読の価値ありです。

<<少しアップで>>

毒井戸の跡

安芸城跡の看板の向かい側に「毒井戸跡」がありましたこれは長宗我部に内通する者が隙を見て井戸に毒を入れたというイワク付きの場所です。

武勇に優れていた安芸国虎も、内と外両方から攻められては万に一の勝ちもないでしょう・・・

しかたないと言われればそれまでですが、ちょっと悲しくなる出来事です。

井戸を覗いてみると・・・

井戸の中を覗くと、ご覧の通り埋め立てられています。

実際に入る事はできませんが、眺めていると、当時の様子をあれこれと想像してしまいます。独特の雰囲気がある場所でした。

中腹部

安芸城跡の登り坂を少し登ると開けた場所があります。おそらく曲輪(クルワ)の跡だと思います。

実は息子と娘がいるんですがわかりますか?全体を撮影したので分かりづらいですね。

画像をクリックすると拡大されます^^

安芸城跡からの眺め

中腹部からの眺めです。周辺は民家が多いです。

どのかな雰囲気でした。

坂道・・・

曲輪跡からさらに上ります・・・しかし、階段なんてすばらしいものはありません。単なる坂です。特に娘はこの頃よちよち歩きをし始めたばかり・・・ずっと抱っこでした(汗

この坂を登りきったら広場がありました。

広場です。

安芸城跡の頂上です。

おそらくこの場所に館があったものだと思われます。

例のごとく柵が無いので、端っこは危ないですが、広いので十分に遊ぶ事ができます。

しかし、さすが山・・・藪蚊だらけでした・・・